ネヴァーランド
ヒトミが震えている。体が固まっている。ということは、ヒトミも知っているのだ。
教えてくれないか、いまの音の意味を。
ヒトミの硬い肩と背を両手でほぐしながら、横顔を覗くと、また泣いている。しっかりしてくれ、と言いたいところだが、僕こそしっかりしていないからな、とも思う。
自分がヒトミの足手まといであることはわかっている。恐怖の正体は知らないが、僕達に危機が迫り始めたらすぐさまヒトミと別れねばならない。いや、そんな条件をつけるのはいやらしい。今すぐヒトミを逃がすべきだ。ヒトミがチャーリーの二の舞にならないために。
ヒトミの体を揺すぶると、左肩を両手でつかんで、押した。
逃げろって。
ヒトミは、呆然と突っ立ったまま、初めて見た何かのように僕を見ている。
泡を食った亀のように両手と左足で這ったが追いつかれた。背中にかぶさったヒトミをふるい落とし、尻餅をついたまま、あたりの草を両手でちぎっては投げ引き抜いては投げつけた。
行ってくれ。
ヒトミは、やや離れたところに坐って、草爆弾を浴びたまま、悲しげに僕を見つめていた。
こんなことをしていたら二人とも逃げ遅れる。また僕は馬鹿なことをやっている。
ヒトミのところに這っていく。ヒトミも這ってきた。再び肩を組んで立ち上がると、周囲を見回した。
兵士達はもう列などなしていなかった。左手のジャングルに逃げ込む者もいるし、斜面を駆け登って奴隷の列を目指す者もいる。その奴隷達も、走っている。崖下の奥は、避難の兵士で膨れ上がりつつあった。
ジャングルから複数の吼える声が聞こえた。スタッカートつきの、断続的な声だ。いつかどこかで聞いたことがある……
兵士と、それに続く死に損なった赤目が、あわてふためきながら横切っていくサバンナの縁、ジャングルにつながる所で、蔦かずらと木の枝が不自然に揺れていた。
見えた。
木の幹に横腹を擦り、腐植土を鼻息で吹き上げた。茶色い鼻面と舌から垂れるよだれ。警戒したのか、狙いを定めたのか、調子を急に変え、低音で長く唸った。
前足で宙を掻きながら低いアーチ状の木の枝を頭で振り上げて背後に落とした。前足をつき、後ろ足を引き寄せて充分に撓めてから蹴った。空中で体を一直線にした。だから、下半身は上半身に隠れて見えなくなった。目だけが光る暗い顔の左右斜め下に前足が突き出ている。水の分子構造のように、くの字を右に九十度回転させた形。前後の足を束ねて着地し、また跳んだ。三回の体の伸縮でジャングルの影から脱し、全身が銀色に輝いた。サバンナをなぎ払いながら猛スピードで駆け始めた。
もう一頭の双子のような恐竜も同じしぐさをしてあとを追いかけてきた。同じ夢を続けざまに見る感じ。
悪魔のような短い三角の耳を側頭に貼り付け、血走った目を落ち着きなく移動させているが、頭と心臓の位置は一定に保っている。鼻が無意味なくらいに突き出て、口はこめかみまで裂け、つり上がった上唇の奥の牙は尖っていて見るからに痛そうだ。銀色の肩には、皮膚病のようにこげ茶の斑点が散らばって、筋肉の動きにあわせて相互に近寄ったり離れたりした。
逃げまどう兵士を追い、爪を立てて押さえつけ、食いついて振り回し、投げ捨てる。食用として食べるのではない。弄んでいるだけだ。さすがに、火と煙は苦手らしく、二頭は二手に分かれて火葬場を迂回し、吼え続けながら、モーゼのいる崖下の奥に近づいてきた。
僕達のほうに近寄ってきた恐竜が、高音域の悲鳴を上げて横転した。黒い煤を舞い上がらせ、血を振りまきながらのたうちまわる。何が起きたのか。左足がつぶれて団扇のように振れている。赤目の押し込まれている地帯から逸れてしまった岩が命中したのだ。逸れたというより、取り囲む兵士が逃げるので、赤目も逃げ、それを追って岩が周辺に分散しだしたのだろう。
そうだ。岩を投げろ。
僕は、上に向かって叫んだ。赤目じゃなく、恐竜に投げつけるんだ。
ああ、遠すぎて聞こえないか。
あの時は、石を投げるな、やつらは飢えている、食料を投げろ、と叫んだものだったな。
投石が止まってしまった。
上にいる者たちも逃げたようだ。広場まで恐竜が登ってきたことがあったのかもしれない。
足を砕かれた恐竜は、上半身と長い尾で拍子を取って滑稽に踊りながらジャングルに姿を消した。
もう一頭にどう対処したらよいだろう。
ニンテンドーが使えれば……
いや、使えるかな。モーゼがすぐ近くにいるではないか。使ってみよう。試みよう。
僕は、ヒトミを揺すって、逃げないで攻撃するほうがいいと思ったんだ、つきあってくれ、とつぶやくと、崖下に向かった。勝手な思い込みですまないな。
恐竜は、モーゼ達の正面で、岩肌を前足で掻き、長い尾を水平に振り、つばをはね散らかしながら、緩慢な舌なめずりをしていた。一頭が足を潰されたときには、こいつは既に奥まで来ていたようだった。
荒い、切実な、欲求不満のうめき声を発し、上半身を左右に大きくスウェイしながら、狙いを絞っている。
崖に身を寄せた僕達のところまで、満腹の後のゲップのように臭い息が漂って来た。ある兵士がたまらずに、壁を伝って逃げようとしたが、恐竜は宙に舞い、跳びかかって押さえつけ、その頭を噛んだ。骨が割れる乾いた音がした。本当のゲップの音が響いた。兵士の体が飛んで、不快な音を立てて岩に張りつき、一緒に転がってきて、最後の一回転をためらい、後戻りして静止した。
恐竜は反対側にも逃げようとする者はいないかと偵察するためにしばらく姿を消した。その間に、僕はヒトミに、大丈夫だ、うまくいく、大丈夫だ、とささやきながら、斜面を跳んで登った。頼もしくもヒトミは怯まず、僕を力強く支え続けた。僕達は首尾よくモーゼグループにもぐりこんだ。
煙は吹き込んでこない。顎のように突き出た清水の舞台が、下から舞い上がる黒煙を煙突効果で上に放出している。だが、恐慌状態に陥った者が、音や土ぼこりをヒステリックに立てる。錯綜する命令の声が足音と混ざって、天井と奥の壁に反響し、不穏で不吉だ。赤い土ぼこりは、極小のやすりの破片の集まりかと疑われるほどで、目を開けているとすぐに痛くなる。こするとさらにやたらに痛い。頻繁にしばたたく。涙がずんだれる。喉と肺も痛いが防ぎようがない。