ネヴァーランド
太陽はまだ湖の向こうの山脈から浮上したばかりなので、陽光は水平に走り、崖下の奥まで達しているが、立ち上る黒煙とその影のせいで、モーゼの姿は、頻繁にかき消された。熱旋風の戯れによって不意に煙に穴が開き、鮮明なモーゼ像が飛び出したように見えることもある。
このあたりの空には飛ぶ生き物は怖気づいて近寄らない。煙に汚されて茶色じみた出来かけの入道雲が立っているだけだ。昆虫も鳥もジャングルのはるか彼方で鳴いている。
兵士達は武器を持って待機している。立っている者と坐っている者とがほぼ半々だ。警戒はしており、歯向かう赤目に容赦はないものの、阿鼻叫喚の巷を前にしながら、高みの見物という風でもある。彼等の前には殺された赤目の死体が横たわり、重なり、その数は増え、一つながりの壁となって、逃げて来る赤目の障害となっていた。
僕はいざって斜面を登っていく。兵士達の揺れる後頭部やうごめく背中を横目で見る。
彼らは、日常生活では家庭を営みながらも無為徒食に明け暮れる酔っ払いであり、戦場では自殺志願と見まがうほどの特攻戦士であり、自らの肉体を食料として供与しているかもしれないマゾヒストであり、僕に飲み物や食べ物を投げ与え、死者に歯を投げて哀悼の意を表わす真情あふれる善者であり、今は機械的に大虐殺を遂行する冷血漢である。僕はこれらのキャラクターを串刺にして整合的に理解したい。
そうする必要がある。彼らが帝国の主要な成員であり、僕と本来最も近縁の者であり、これからも、ともに暮らしていくはずの仲間だからだ。
彼等の途方もないニヒリズムには以前から気がついていた。命を棒に振ってやろうという、前もっての諦念もみてとれた。自身も含めて世界を相対化し、根拠がないと断じ、だからこそ虚構を弄ぶ精神のなれの果て。シニシズムに飽きた後の協同の実践として帝国があり、戦争があるのではないか。こういう者たちが、市民として絶対多数を占めているとは、驚きだ。僕と同じか少々年上の、同じ施設で暮らしていた仲間が、これほど短期間に生存の諸階梯を駆け抜けてしまったとはさらに大きな驚きだ。飽きた後の実践は激烈だ。彼らはもうモラルを超え、モラルを捨てているから、簡単に死に、平気で虐殺しても、優しさと矛盾はしない……
左手がぬるい粘液で濡れた。草の間に、岩盤の露出しているところがある。それの凹みをつないで細い油の筋ができていて、それに手をついてしまった。筋は小指の元でせき止められ、手首に向かって先端を伸ばしていた。左手を地面から離すと、少し前進し、草に手を垂直に立てて擦りつけ、油をぬぐった。血液はたちまち凝固するが、脂肪分はそうならない。熱い露岩の上を流れて拡がり、最後に土に滲みこんで根の吸収作用を妨げ、サバンナを寄せつけない。今日は特に油が多いはずだ。
いきなり兵士に突き飛ばされた。その場に横倒しになった。その兵士は舌打ちをしながら僕の体をまたいでいった。数名の兵士が、同様に背後に身を退いた。口々に何か言い合っている。彼等の視線を辿って岩場のほうを見た。黒煙が何重にも幕を作り、その下辺で紅蓮の炎が踊っていた。燐が時々青く輝く。その煙と炎を突き破って焼けた死体が岩肌を転がり落ちてくるところだった。腕と脚で大きなボールを抱えるように体が湾曲し、それ自体がボールとなっている。体は膨れ上がり、皮膚は紫色で、いたるところに亀裂が走って脂肪に浸った白い肉を見せていた。死体の壁を駆け上って大きくバウンドすると目の前に落下した。
kʌˈt ʃɚ:ˈ。
音を立てて頭蓋骨が破裂し、煮えた脳味噌がマグマのように噴き上がった。僕は続けざまに二回横転して逃げた。目をつぶり腹ばいになった。数滴だが背中に熱い汁を浴びた。おいしそうに焼けたステーキの匂いが漂ってきた。
仰向けになって体を数回くねらせた。痛くはない。火傷はしていないようだ。はるかな天の高みを翼手竜が太陽に向かって滑空していた。あれほど高ければ、炎も煙も臭いも落下音も叫び声もなく空気は澄んで冷たいことだろう。
四つん這いで斜面を登り続けた。
見上げるたびに、清水の舞台は見える角度を変えるので、顎を突き出した巨大な何者かがゆっくりと顔をそむけかけているような気がした。僕を厭んで。
兵士の列は舞台下の崖に沿って延び、モーゼを取り囲む集団へとつながる。僕は崖下に行くつもりはないので、少しずつ列から離れていく。
斜面の上のほうに、ジャングルから草原に出た奴隷達の姿が見えた。崖上の広場まで長い列を成して帰っていく。
包囲作戦が成功したと見做された段階で、奴隷と兵士は別れたのだろう。最終段階には時間があまりかからないらしい。
彼らはうつむき、背を丸め、ゆっくりと、速度を変えずに、いかにも奴隷らしく進んでいく。僕は、視野に入る端から端までの奴隷が全員入れ替わる時間を測り、その時間が経つ毎に止まって顔を上げた。何度も繰り返した末に、お目当てを見つけた。僕は叫んだ。
ヒトミ!
列の中央あたりで、少年奴隷が跳び上がった。
ヒトミは素晴らしいスピードで駆け下りてきた。すっころんだ。アヤカを思い出した。
監視していたブラザーが怒鳴りながら後を追ったが途中で止まった。僕を見て、負傷兵だとわかったからだろう。
目やにと涙で汚れた目を見開いて、ヒトミが跳びかかってきた。
大声で、正確に、タダヨシ!
僕はでんぐり返った。僕達は抱き合い、転がった。草が次ぎつきに倒れ、種子がはじけ飛び、綿毛が舞った。ヒトミは、細く、軽く、毛深く、臭かった。実際、音を立てておならをした。
僕の横隔膜と腹筋が痙攣を始めた。
笑い声は、奴隷達にも兵士達にも、耳を澄ませば聞こえたはずだ。
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ヒトミは、僕の傷を見て長いため息をつき、涙を流した。僕は見せたくなかったが、歩き方を見たら、すぐわかる。しょうがなかった。
草の谷間に座り込み、僕の右足を抱えた。抜き取ろうとしても許してくれなかった。頭を振りふり、足の裏と甲とをかわるがわる舌先で舐めた。唾液は生ぬるく最初のうちは少し沁みた。
僕は仰向けになって目をつぶり、うとうとしかけたが、足を舐めさせておくなんて、のぼせるな、と恥ずかしくなった。起き上がり、ヒトミの腕をつかんで、もういいよ、と言った。足を離すまで揺すり続けた。ヒトミもしつこいが僕もしつこかった。
ヒトミの肩に右腕を回して歩き始めた。僕達の影は、短い草の上には濃く長く映ったが、高い草の上では輪郭が定かでなく、かすかな風と踏んで倒れる茎によってさらにかき乱された。
僕はヒトミと別れてからのことをしゃべり続けた。ヒトミにとっては迷惑であるかもしれなかったが、僕が話しやめると、ヒトミは尻をぶつけて、先を促した。僕達の吐く息は、律動をとって白く目前を霞ませ、それが消える前に、僕はもくもくと新たに語った。吐く息と語りが競争した。
背後、湖のほうで、大きな、とても大きな破裂音がした。みんなが聞いただろう。
かつて、頁岩の崖の上で、ステゴザウルスがヘビをぺちゃんこに踏み潰したときの音に似ていた。
兵士達が声を上げた。歓声でも怒号でもない。真に迫った恐怖の声だ。音の意味を知っている。
これから何が起きるのか。