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ネヴァーランド

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この歌とは別に、朝の目覚めの音楽として、ピテカントロプス・エレクトゥスという曲を聴いたことがある。チャーリー・ミンガスの代表作だ。質問すれば、父は、題名と作曲者を教えてくれたものだ。
父との対話を思い出す。
「春の祭典みたいだね」
「偽悪的なところがあるな」
「ギアクテキ? ああ、そうか。なぜ自らを悪く偽るの?」
「善を挑発するためだ」
「じゃあ、ギゼンテキである者は、悪を挑発するために善と偽るの?」
「ちがう。非対称だ。偽善者は悪にはとても立ち向かえない。相手にならない。善良な市民をだますのさ」
今なら質問したいところだ。
帝国の市民は善良なの? もしそうなら、モーゼはだましているの? 僕にはモーゼが偽善者だとは思えないんだ。モーゼは市民ではないけど、独特の善良さを表わしていないかなあ。ということは、偽善者がほかにいるっていうこと?
「ピテカントロプスって、どういう意味?」
「固有名詞だ。意味はない」
父は、すばやく答えた。僕は、windowsという言葉に対して僕の父とドギーの父が使ってきたのと同じ神経をかすかに感じた。エレクトゥスは、立った、直立した、という意味だと思われた。いったい何が直立しているのだろう。
「標題音楽?」
「そうだ。野性の維持、進化に対する嫌悪といったところだろう」
進化を嫌悪する生き物なんているだろうか。自らに有利だからこそ進化したのにそれを厭うとはどういう了見なのだろう。
「進歩に対する嫌悪じゃないの?」
「それだとありきたりの文明批評に堕しかねない」
「お父さんは文明をどんなものだと思ってるの?」
「進歩の成果一切だ。進歩は技術を、技術は科学を必要条件にしている。お前だって文明の、結局は科学の申し子なんだよ」
「お父さんとお母さんの申し子ではなくて?」
「ははは。まだ日本語が定着していないな。父母の申し子とは言わないよ。いいか、他の子達とは異なって、お前を特徴付けているのは科学だ。お前は、ら、ら、ら、科学の子なんだ」
「ら、ら、ら?」
「寿ぎの歓声だ。生まれたことを祝福しているのさ」
その時は、自分の息子をおちょくるのはいい趣味ではないし、主に科学の分野で僕に特殊教育を授けてきたからといって科学の子と呼ぶのは大げさだろうと思った。しかし、今は、日本語が定着している父が、使い方を間違えたはずはないから、僕のほうに誤解があったと思う。それが何かはわからない。

穴堀りが完了した。
チャーリーの右肩を押し、仰向けにした。上半身は穴の上に出っ張ったが、縮めた両脚のせいで身体が落ちない。穴に跳び下りて右足を引っ張り、壁に垂らした。よじ登って左足首を掴み、再び穴に戻って引っ張った。じわじわ尻がずれて近づいてきた。ついに下半身も反転し、腐植土が崩れ落ちるのと一緒にチャーリーは右肩を下にして穴に落ちた。暗闇よりさらに黒いものが、僕の視野を塞いだ。穴の底にいる僕にチャーリーは体当たりした。僕は尻餅をついた。何か僕に言いたいことがあるのだろうか。チャーリーは顔を壁に向け、地上での姿勢と線対称の姿勢をとって静まった。腹と腰の上に金剛力士を乗せ、重くて身体を抜け出せない。落ちた拍子で、チャーリーの膀胱が圧迫され、既に充分出ているはずの尿がさらに出た。僕の太股に垂れ、呼び水となって僕も激しく放尿してしまった。チャーリーと僕のペニスはすぐ傍にあり、どちらもションベン垂れを恥じて縮こまっているはずだ。
穴の中は、ガス臭く、土ぼこりが黄塵のように籠もり、無数の枯葉の断片が浮遊している。
このままチャーリーとともに墓穴に居続けることになるのかと思ってしまう。
奮闘努力の末、穴から這い出た。
獣の糞が蹴飛ばされて、毒キノコが横倒しになっていた。つまみ上げ、土を振り落として、チャーリーの閉じた目の仮想視線の上を狙って投げ落とした。赤い落下傘となった毒キノコは壁に沿って降下し、チャーリーの鼻先で、笠をその鼻に向けて着地した。
土をかけていった。僕ではなく赤い毒キノコを見つめている横顔に土はかかる。耳が出たばかりの子葉のように土から突き出ていたがたちまち消えた。火山島のような骨盤の突起が隠れると、あたりは土ばかりとなり、小さなくぼ地に過ぎなくなった。
もうすぐくぼ地でさえもなくなるだろう。





             (文中の歌詞は、東京大学学生歌「ピテカントロプスの歌」より引用しました)

61)

穴を掘る途中で出くわした火山弾を、獣達が掘り返すのをいくらかでも防ぐために盛り土の上に乗せ、ねじ込んでいく。
どれも作為的なほど対称な紡錘形をしているし、見掛けに比べて軽い。だから、斜面に沿って押し上げたり、転がり落ちないように土にめり込ませたりすることは、穴を掘るのに比べれば、たやすい作業だ。
それらは腐植土が土になりかけたところに幾つかあった。大雨で山の斜面を押し流され、ジャングルに捕まったのだろう。空中を飛来して土に突き刺さる場合もあっただろう。
火山弾が埋もれていた層の下には固まった溶岩が厚い床となって四方に拡がっているはずだ。もしかしたらそのまた下まで、高い天井から岩のつららを垂らしながら溶岩洞が延び来ていて、そこには鴨川の冷たい水が音を立てて流れているかもしれない。
最後の火山弾を固定して、盛り土の山から下りた。
疲労困憊のあまり枯葉の上にうずくまった。
すべての指の爪に、血がにじんでいた。手を裏返して見ると、掌が傷だらけで、血と泥がパテとなってそれらを塞いでいた。化膿したり破傷風にかかったりする危険性がある。
見つめている掌が不意にかすんだ。
気絶するのだろうか。
腹は空きすぎて胃が痛い。水が欲しい。汗や尿だけでなくつばも出尽くし、その名残が粘膜となって上あごと喉に張り付いている。舌が乾燥して固くなっており、表面がざらざらだ。息は窒素化合物の臭いがする。蛋白質が分解を始めたのだ。身体のあちこちに痙攣が走る。
掌は、はっきり見えたかと思うとまた白くかすんだ。
僕はゆっくりと顔を上げた。
湖のほうから、木の幹を右に左にかわしながら、白い煙が湧き出てきた。活発に流動し、先を争って近づいてくる。時々笑うように渦を巻く。
朝霧が山腹を這い登ってきたのだ。木の葉の影は薄まって灰色になり、その向こうに紺碧の空が見えた。
やがて僕は霧に取り囲まれた。視界が段々白くなり、皮膚が湿って冷えてきた。このまま死んでしまうのか。
さらに近づいてくるものがあった。
左手の森の奥から、落ち葉や枯れ枝を踏み、下草を掻き分ける音が聞こえる。その音源は点ではなく、湖に向かって直線をなしていた。
白い霧の中に、さらに濃い白が現れた。帝国兵士の群れがやってきた。
僕の体の石灰はほとんど剥げ落ちてしまったが、彼らは真っ白だ。一度も戦闘をしていないのがわかる。
赤目たちが逃げ出したわけがわかった。帝国軍の包囲網が狭まってきたのに気づいたからだ。
今ごろ来やがって、とは思わない。この地区で帝国軍がいのしし陣形を崩して包囲作戦に切り替えた原因は、僕が犯した馬鹿げた行為にある。その結果にケチをつける権利が僕にあるだろうか。
うずくまったまま顔だけ上げている。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦