ネヴァーランド
見下ろす者の心中に思いを馳せ、どんどん馳せて、同化してしまった。
死んでしまったので、修業の最終目標から日々の課題までのすべてが、果たせぬ夢に終わったが、その瞬間、それらが一挙に果たされたという、目くるめくパラドックスに、あっけにとられた。
……わかったかもしれない。このお経の言わんとすることが今わかったかもしれない。
語りは原文からさ迷い出て行くが、かまわない。わかったことを唱えよう。
他者を許し、それを知覚し、概念を構え、やってみて、反省し、認識し、世界観を持つに至る、という連鎖は、脳神経系の活動を前提にしているから、前提がなくなった今、立ち消えてしまったのだよ。
君はもう苦しまない。悩まない。痛くも痒くもない。気持ちいいこともなくなったけれど。
当たり前のことが、幻想だったんだ。
幻想だけが人生さ。
ほっぺたをつねると痛かったのは、幻想のうちにいた証拠だ。
君は、死んでしまったから、そこのところ、よくわかるよね、チャーリー。
善、正、美、真、徳、理念はない。それらの意味がもうないからだ。
対立、差異、識別、分類、分節はない。だから、明暗、シニファンシニフェ、彼我もない。それらを成り立たせる必要がもうないからだ。
否定と二重否定、二重否定と三重否定が並立してもかまわない
たとえば、意味はないが、意味がないもない。無意味がないともいえない。
全体集合が決まらないとこうなる。かくして、全体という限界はなかったことが明らかとなった。
ああ、一切合財がない。幻想の全セットが消滅してしまった。
しかし、安心しようよ、チャーリー。なんとすっきりしたことか。
これで、いいのだ。
だって、君は自己言及から解放されたのだから。
つまり、我はない。だから、我は我を思えない。我が消えたのもわからない。他人事ではないんだよ。
君はすべての拘束から逃れた。存在という拘束からさえ逃れた。
よかったね。
結局君は、唯一の師は、批判精神の権化である死だ、師を見習い、死を先取りして生きろ、というメッセージを残して去った。もういない。
では、どこへ向かったか。
僕は、誘惑されそうだ。ついていきそうだよ。
Oh! Gyaa Tiee! Hurry Gyaa Tiee !
帰りなん、帰りなん、いざ。
故郷の虚無へ、帰りなん。
二度と戻ることのない、まったき虚無の地へ。
ネヴァーランドへ。
チーン、と声を押し殺して、ささやく。
悲しみが掘り進められる井戸のように深まっていく。頭がぼんやりしていく。
ほとんど安堵とみまがえるほどの虚脱状態に陥った。
現実ははるかかなたに遠ざかり、チャーリーの亡骸に向かって、最後に何と口走ったのか、もう思い出せない……
60)
いつの間にか忍び寄っていた寒気に身体が痙攣を起こし、僕を現実に引き戻した。誰かの凍えた大きな手で全身が激しく揺すられたように。
落ち葉が重なる地面にひざまずいてチャーリーの横顔に顔を近づけた。最後の防御のために吊り上げた右肩の向こうに、閉じた瞼がある。それを注視すると視野の下のほうで右肩が左右にぼやけて分かれた。瞼の裏で今でも僕を見つめているはずの目を想像する。血の塊が盛り上がった額の下の目じりから涙の線が鼻の横を通って口へと延びていた。歯を硬く食いしばって、戦っていた時と同じように、下唇が突き出ている。これからも断固として戦闘を続けていくつもりらしい。
墓穴を掘ることにした。
チャーリーが重すぎるので、離れた所に穴を掘ると、引き摺っていけないだろう。だが、近すぎると、柔らかい土質なので、体重によって穴が崩れる恐れがある。仰向けにして右肩が穴の口にかかるくらいの位置、つまり僕がいるところを掘ろうと思った。道具がないので、奴隷流に土を掻いて脚の間から押し出す方式しかとれない。何列かの土砂運搬の連鎖を自分だけでやり、一面ぶんを深くし、さらにその面を掘ってもう一面分深くする。これを繰り返して垂直に幾層も掘る。穴が深くなると、土を地上に出すのが難しくなるので、土の底が緩い傾斜面をなすように、チャーリーの体長の三倍ほどの穴を、体と平行に掘ることに決めた。
掘り始めた。
指を精一杯拡げ、両手を並べて十回掻いてみた。腐った木の葉ばかりだ。カブトムシのにおいがする。どこまで掘れば、落ち葉ではなくなるのだろう。
粛々と作業を進める。
指は様々な生き物を引っ掻く。アリ、ミミズ、挟み虫、団子虫、げじげじ。名前を知らない多くの生き物。僕の指は遭遇のたびにおののくが、相手もそうであるのは、慌てふてめいて逃げるさまで推察できた。
落ち葉が徐々に、土になっていく。垂直方向であれ、時間の進む方向であれ、死んだ生物は土になっていくのだ。
破傷風に罹るのは嫌だから、掘り返した土が右足にかからないよう気をつける。
単調な作業が延々と続く。土砂運搬のときの癖で歌を歌いたくなった。だが、ヨイトマケの歌では、かーちゃんのためならえーんやこーら、もひとつおまけにえーんやこーら、だ。ふさわしくはないだろう。矯正用発声練習のために歌った曲は、洗濯女や、農夫や、牧童や、職人やが歌う明るく陽気なものばかりだった。めぼしいものがないかと記憶のボックスをかき回して捜していると、何かに触った感じがした。半音ずらしを多用した退廃的なメロディーに乗せて奇怪な歌詞が口をついた。
光りの世界は住みにくい
まぶしい まぶしい うめてくれ
おや、この歌はなんだ? 墓堀人夫の歌だろうか。こんなに今の状況にぴったりの歌を、どうして知っているのだろう?
スーウ スウ スウ また眠れ
ガタリ ガタ ガタ めざますな
ニヤリ ニヤ ニヤ 見つめるな
しばらく考えた。やっと、はるかな昔、父が歌っていたのを思い出した。繰り返し聴いたせいで、僕は歌ったことはないが、記憶に残っていた。
驚くべきことには父は酔っていた。音程が外れているわけではないし呂律が回っていないわけでもなかった。しかし、酔うとはどういうことかもう僕は知っているので今ではわかる。冷静の極北である父が酔うこともあったとは一つの発見だ。
再生された歌声に耳を澄ます。別の男の声も混じっているように思う。ドギーのダディだろうか。
僕は歌いながら掘る。
土はどこまでもやわらかい。菌糸は土よりも柔らかい。木の根と竹の根はそうはいかない。細いのは、手でちぎるなり噛み切るなりできる。太いのは、周りの土を取り除いて、宙に浮いた蜘蛛の巣のように残しておく。チャーリーが落ちてきたらひとたまりもないことはわかっているからだ。
作業は捗った。
歌はこの作業のために作られたかのようにしっくりきた。
シーンと静かなよる
ヤーレ ヤレ ヤレ ひとねむり
やみ夜の世界は住みやすい
ここは日本の午前三時
ねむいぞ ねむいぞ ああねむい
おれはがい骨 ピテカントロプス
ぶいぶい、と掛け声を入れてみた。チャーリーが歌っているような錯覚にとらわれた。
骸骨は気が早すぎるよ、チャーリー。君のこの巨体が骸骨になるには、炎天下で膨大な数の地中生物が一致協力したとしても一ヶ月はかかるね。
午前三時は合っているが、ここは日本じゃないだろう。僕達は施設日本からさ迷い出てきたんじゃないか……