ネヴァーランド
敵兵達の様子を観察する。彼らは僕達に主な注意を向けてはいない。時々目を向けながらも、競って拾っては食べていた。
やつらはどうするつもりなのか。かたずを飲んで僕は見守っている。
誰からともなく食べるのをやめて、僕達をじろじろ見始めた。やがて全員がそうするようになった。スポンジを噛んでいる者が、点々といる。そいつらの目は格別赤くみえる。
攻撃を仕掛けてきそうだ。
僕は、捕虜になってもかまわないから、休戦を申し出ようと思った。
思い切って、おい、と呼びかけてみたが答えがない。迷惑顔の味方の兵士達が、振り向いただけだった。顎を小さく振って応じた。すまん、すまん。
団子状態になっている仲間達を掻き分けて、陣営の外に歩み出た。身振り手振りで意思を伝えようとした。言葉が通じるはずはないけれど、首を左右に振り、両肩を上げ、両手で×印を作りながら、何かしゃべらずにはいられなかった。そうして気合を入れ続けないと、恐怖に押しひしがれてしまいそうだった。
戦いたくはないんだ。やめにしよう。
もう充分に食べただろう。少しは気が済んだろう。食後の昼寝でもしたらどうだ。
沈黙が訪れたが、一瞬だった。
敵兵が、駆け寄ってきた。スピードを落とさずに、飛びかかってきた。
真っ赤な目を見開き、憎悪の電気火花を撒き散らし、上唇を巻き上げて、大きな尖った前歯をむき出し、ぶつかる直前、急に顎をかしげた。
僕も挫折感を強引に振りきり、とっさに上体を右に曲げたので、頚動脈は噛まれなかったが、左肩にかぶりつかれた。腹を蹴って巴投げをかけてもまだ喰いついたままだ。敵の首をつかんで引き離そうとするが、タールのような垢で手がすべる。敵が息を吐くたびに噛まれている部分が熱くなる。枯葉が舞い上がり、腐植土が飛び散り、空気が埃臭くなった。右手の指四本を敵の下唇の元に入れ、親指を下からめりこませて顎をつかむと、喉に向かって引きおろした。なにかが破れる音がした。敵は唸りながら這って逃げた。垂れた血と鼻汁をぬぐって噛み跡を露出させると、折れた歯が二本刺さっていた。引き抜いて血の穴につばを何度も吐きかけた。
心臓の動悸が静まらない。生まれてはじめてのタイマンだった。憎しみを欠いたまま戦いを始めた。終わってからは、後味の悪さが全身を占拠した。そのうえ、僕のどこかに数粒の火の粉が飛び火した。燃え上がりはしないが簡単には消えそうもない憎悪の火種だ。だが、消すための努力を払うべきだと思う。憎悪の誘惑に負けてはならない。
仲間の悲鳴があちこちからあがった。敵が空噛みをしながら襲ってきた。歯がやはり、訶っ、と鳴る。
逃げろ。とどまるな。逃げろ。
しかしどこへ、どうやって。
僕は、こっちへ来い、と叫ぶと、空々しい大声をあげながら、今僕から逃げたばかりの敵兵を追いかけた。やつは、血まみれのよだれを吹き飛ばしながら、外れた下顎を振り回して僕を振り返ると、恐怖の色を浮かべて逃げていく。
やつによって道が出来ていくのだ。やつを止める敵兵はいない。やつを切っ先にして敵陣を切り裂くのだ。ついてくる味方の足音が聞こえる。心強い。突破できるかもしれない。
血まみれの下顎を振りふり逃げる男と大声で威嚇しながら追いかける男という奇怪なとりあわせは、周囲の度肝を抜いたようで、救いの道を開いていった。
僕は、追いながらも周囲を見回し、さらにその道から逸れようと機会を窺う。やつは、自分にとって安全なところに逃げていくはずだから、先手をとってかく乱する手段としてのメリットしかない。早く縁を切ったほうがいい。僕の脳の底から湧き上がってくる、かつて自覚したことのないものと早く縁を切るためにも。逃げ惑う、唯一優越感を振るえる者を、さらにもてあそび、追い詰めようとする、僕自身が当惑する心の汚辱と縁を切るためにも。
案の定、やつは湖のほうへ泣きながら逃げる。僕は左や右に寄って何とかそちらに行かせないようにしたが、進路が折れ線になるだけだった。
逃げ始めてから千二百秒ほど経って、やっと、敵兵の群れから逃れられた。しかし、味方と離れ、ジャングルの奥に入ってしまった。
ふいにやつの姿が消えた。井戸に落ちたように見失った。それがよかったか悪かったかはこれからわかるだろう。さあどうしよう。
樹皮が剥げ、白クリーム色の生地がむき出しになった枯れ木が、もつれ合って立っていた。はるか遠くの森から漂ってきた異端の種子が舞い降りて、しばらくは叢をふくらませたが、定着できずに滅びた跡か。ところが、近づくと、腐植土に突き刺さった幹は、根の盛り上がりを持たず、正確に四本しかなかった。その上にはびこる枝は奇怪に湾曲して先が尖っていた。空中に拡がるヒントの図柄と矛盾しないような絵を何度も描いては消した。やっとわかった。巨大な生物の骨格が浮かび上がった。恐竜が立ったまま白骨化していた。
僕は周りをうろうろしてしまう。
背中から垂れ下がる乾いた皮膚には、抽象的なまだら模様が、苔と埃と虫の糞を透かして見えた。皮膚は、ぼろぼろになったコートだ。森に紛れ込んだ風のせいで端が時々まくれ上がり、あばら骨が見える。骨格の下は、滴り落ちた脂が土の質を変えてしまったので、草が一本も生えていない。
強い相互作用で引きつけあうように湾曲した茶色い二本の角は、何重にもとぐろを巻いた蔦の天辺からわずかに頭を出して僕を見下ろしていた。精一杯突き出し開き切った口には、頑丈そうな臼歯が並んでいる。透けて見える咽喉からジャングルの果てに向かって繰り返された絶望の咆哮がよみがえって聞こえてきそうだ。角と相似的に、何本もの蔦が体中にコイルとなってまとわりつき、大きな篭を作っていた。恐竜は、全力を尽くした。森そのものを引きずろうとした。しかし果たせず、力の化石になったのだ。森はよほど恐竜を気に入ったらしい。抱きしめたまま今も離さない。
森の奥から、川のせせらぎと魚のはねる音が聞こえてきた。泉から流れ出る甘美な小川を思い出した。喉が渇いているのに気づいた。一度気づくと我慢できなくなった。恐竜の腹の下、脂で黒くなった腐植土を踏んでいく。上を仰ぐと、はるか中空に拳を連ねたような竜骨が浮かび、両端を肩甲骨と寛骨が支えていた。肋骨は、なだれ落ちる幾本もの白糸の滝であり、その先が跳ね、揃って僕を指差していた。
音をたよりに前進した。藪を何度も掻き分け倒木を乗り越えた末に現れたのは、川でも魚でもなかった。甘美どころではないこの世の地獄だった。
58)
聞き間違えた音は、実は、赤目達の立てる歓声、嬌声、どよめき、怒鳴り声、走り回る音、せわしないおしゃべりと咀嚼音だった。
僕は、惨憺たる戦場跡の縁にいた。
猛烈な悪臭ただよう宴会場が眼前に広がっていた。
腕と口を真っ赤に濡らし、畜生の形相で帝国兵士の死体に食らいついているのは、ほとんどが女と子供だった。所々に男がいた。彼らは食べるだけではなく、胸骨を開いたり、関節をはずしたり、腱を噛み切り筋肉を引き離したり、髄を取り出すために骨を割ったり、首をねじ切ったりといった力仕事もする。
僕の仲間達は、森の奥へと充分引き寄せられた果てに、一斉攻撃を受け、ろくな反撃も出来なかったたらしい。