ネヴァーランド
木の幹に隠れながら、片目でこちらを窺う者がいる。周りの肉が落ちてしまっているので、目はこぼれそうなほど大きい。しかも赤い。眼病に罹っているのだろう。目の袋が垂れ下がっている。頬骨は飛び出し、頬は陥没している。そいつの細くて幅の狭い手が、幹を下降していた昆虫をつまんで潰し、口に押し込んだ。研いで尖った歯が見えた。そいつの背後から肩越しに窺う者がいて、更に脚の間から顔を覗かせているやつがいる。先頭が木の陰から陰へすばやく移動すると、後続の者達が波動の伝わるように全く同じ動作をする。恐怖は僕に超能力を与え、どの木の後ろにも、痩せた赤い目の敵兵を透視してしまう。藪から藪へと横ざまに走る者は、わざと恥部を晒すように、腹を見せた。それはあばらの下で穴が開いたようにえぐれていた。腐植土に半分埋まって、風呂の湯を体にかけるのと同じ素振りで、枯葉を頭にかけているやつがいる。状況から超越したかのように、別格の雰囲気に満ちみちて、木の枝に横たわって見下ろしている者もいる。
どのやつも、小柄で異様に痩せている。面相や体形から、異民族であることは明らかだ。そして、もっと明らかなのは、飢餓状態一歩手前にあることだ。飢えと貧困に促され、このままだと飢え死にするしかないと悟って、攻撃を仕掛けてきたようだ。菌の培養池となっている目は、絶望と憎悪と羨望に赤く燃え上がった心の噴出孔だ。闇の中に沢山の赤いランプが浮いていた。まばたきするたびに点滅した。口も、オカマと見まがうほどに口紅をぬたくったように赤い。くちびるをはみ出し、鼻や顎まで赤い。戦闘で噛みついた際ついたこちらの兵士らの血のせいに違いない。妙なものに目を奪われた。毛がへばりついた皮膚が歯に挟まったまま垂れてゆれている。噛みついた以上の、想像したくないことがあったのだ。
彼らが水辺の民だとすると、浅瀬や岩場の蟹や蝦は採り尽くしたのだろう。大型魚類を捕まえる技術は持たないのだろう。針葉樹林帯に住まざるをえなかった者たちなら、食料は、きのこ類か少数の昆虫しかない。いずれにしても、もともと多かった成員を養いきれなくなったのだ。更にありうるのは、彼らが、僕達と同じように、湖の近辺へ移住してきたという可能性だ。定着できるほど充分豊かな土地が見出せなかったのなら、憐れだ。
彼らは異民族であれ僕達と同一の種に属している。なぜこうなる前に、帝国は充分な政治交渉を行わなかったのだろう。彼らが絶対的な他者なので、それは不可能であり、戦争しかないと判断したのか。
きわめて怪しい。
圧倒的に優勢な帝国は、周辺に覇権を奮うべく戦争へ相手を誘導した疑いがある。戦争を必要とするから、絶対的他者を作り出したのだろう。そういう姿勢が相手に反射して、彼らも帝国を絶対的他者と見て、絶望的な挑戦を試みたのだろう。結局、帝国の自浄作用に利用されるだけとなる。大量死は、この自浄作用のコストとしかみなされない。
戦場で露わになりつつあるのは、双方の精神の荒廃だ。
帝国の、天敵のないエゴイズムと底知れないニヒリズム。赤目族の、絶望と幸運な者達への癒しようのないルサンチマン。
僕はこれらを前にしてうなだれるしかない。それどころか、これらどちらにもつながりうる自分を、恐怖に震えながらも予感しているのだ。
再び投石が始まった。切羽詰っていた現実が一挙にはじけた。
四列後ろぐらいまでの者たちが、投げまくる。
大騒音の中で、僕はなにをなすべきかすぐさま答えを出せと問われていた。誰に問われているのかはわからなかった。こんなにうるさい環境では、答えても聞こえないぞ、とうそぶいた。実際は何と答えればいいのかわからなかったのだ。考える暇がなかった。しかし身体が勝手に動いた。
投石しようと振りかぶった兵士の腕にかじりつき、思いきり引っ張った。うつろな音が肩の辺りからかすかに聞こえた。石は兵士の足元に落ちた。その兵士はちっとも痛がらない。ぼんやり突っ立ったまま、僕を見極めようとするが焦点が合わない。かまってはいられない。すぐ別の兵士に飛びかかった。抵抗するそいつの肩に噛みついた。石が僕の頭に落ちたが、僕も痛くなんかない。
そいつの肩を左腕で引き寄せて、噛み跡を指で触った。歯型はついているが血は出ていなかった。吐きかけられる息がとても臭い。
嫌がって藻掻くそいつと肩を組んだまま、兵士達をあわただしく見回しながら、一瞬一瞬それぞれの目をとらえ、大声で叫んだ。
石を投げるな。投げるべきものは石ではない。見てすぐわかるじゃないか。簡単なことじゃないか。やつらは飢えているんだ。これを投げろ!
兵士から腕をほどき、はいつくばり、足もとに散乱する木の実を引っつかむと、立ち上がりざまに投げた。パイナップルも、タロ芋も、さとうきびも、乾燥肉も投げた。
まねをしてくれ。お願いだ。まねしてくれ!
投げながら叫んだ。何度もだ。
投石兵士に片っ端から跳びかかった。粗暴きわまる手段で投石をやめさせ、土ぼこりにまみれ、踏みつけられた食料を、つかんでは投げた。
兵士は臭い息を吐き散らす酔っぱらいどもだ。予定外のことなど出来ない。しばし呆然、胡乱気に僕を見て、また同じことを繰り返す。だが、僕もしつこい。石を奪い、食料を投げる。もう夢中だ。奪い、投げる。奪い、投げる……
突然後ろに引き倒された。
ニガーのチャーリーが、あるまじきものを見たといった顔つきで見下ろしていた。
じゃまをするな!
叫んで立ち上がったとたん、チャーリーに体当たりされて吹っ飛んだ。
口の中が切れ、鼻の中に血の臭いが充満した。
僕はチャーリーから逃げまわりながらも、食料を拾っては投げた。
チャーリーが大声をあげ、緩慢にうごめく兵士達の向こうで何度も跳び上がった。怒る、というよりは、天を仰いで嘆いていた。
そして異変が起きた。
いのしし陣形が崩れ始めたのだ。どうして? 必勝の陣形のはずなのに。
57)
フロントのとんがりが、左右ともに遠のいていく。更にそれらはカタツムリの角が縮むように、縮退していく。
僕と僕の後ろ七、八列分の兵士は、中州のように取り残された。
赤い目の敵兵達が、洪水となって襲ってきたからだ。
僕が投げた食料を求めてたくさんの敵兵が集まってしまった。食い物をばら撒いている馬鹿がいるという噂が噂を呼んで、殺到したのだ。
彼らはフロントの三角形の辺に沿ってある程度進入すると、僕が投げた分だけでは飽き足らず、散らばっている食料を求めて陣営に突入し、三角形の上半分を切り取ってしまった。
僕のしたことが原因で、僕だけでなく、仲間までが窮地に陥った。なんたることか。大失敗をまたしてもしでかしてしまった。自らのきりのない愚かしさにあきれかえる。チャーリーが天を仰いでいた理由がわかった。
ああ、しかし、今嘆いてもしょうがない。
現状にどう対処したらいいのだろう。
帝国軍がこのようなローカルな事情で全面撤退するはずはない。
いのしし陣形が左右に開き、両翼の端を湖のほうへ進めてから、敵兵たちを包み込むだろう。鳥辺野の左側だけの軍勢で包囲するか、右側の軍勢も合わせてか、はわからない。しかし、どちらにしろ包囲するまで僕達はもつだろうか。敵兵を引き寄せるための囮として使い捨てにされる可能性は高い。