ネヴァーランド
どこにもいない神に祈りを捧げるはずはないが、信仰心厚い信徒のように、ひざまずいていた僕の脚の間から、赤ん坊の頭大の石が突き出てきた。分娩の際もここいらが痛みの中心だろうと思われるところが深く痛んだ。赤ん坊の頭が睾丸を頭突きしたのだ。反射的に尻を上げると、すぐさま別の石が転がってきて、石同士が音を立てて衝突した。急いで前の兵士に渡さなければ、たちまち腹の下に溜まってしまう。彼の睾丸を痛めないようにまずは優しく石を押してやる。その周辺の知覚だけは酔っていないようで、ケツが痙攣的に跳ね上がり、吊るした睾丸を揺らした。だから、二個目からは、機械的にてきぱきと送れた。
大小合わせていくつの石が僕の腹の下を通過しただろう。
土砂を後ろに掻き出す場合とは異なる筋肉を使うため、腕の痛みが早く来た。
だが、顔を見る必要はないのだから、後ろ向きになってやればよいと気がついたのは、ちょうど前のやつが、石を脚の間に置いたままにした時だった。
もう充分という意味だ。おそかった。
食料とスポンジが送られてきた。
食欲は無かったが、これから食べものを口にする機会があるかどうかは確かでなかった。無理やり芋をかじったが、味がない。表皮が割れて、黄色い果肉から汁が滴っている果実を食べてみたが、やはり味が無かった。スポンジを吸った。食道を熱と痛みが下っただけで、ちっともうまくない。僕の味覚はストライキを起こしていた。恐怖のせいだ。恐怖が、最後の晩餐となるかもしれない食事を、僕から取り上げた。だが、ちらり、かすめた別の考えがある。味覚で今までだまされていた、飲食物の正体が見えた。
左右を見ると、兵士達は余裕綽々、ほとんど物憂げなまでに、飲んだり食べたりしていた。傍に妻や子供がいて談笑の最中であるかのように、くつろいでいた。異様だ。それとも、これぞ市民の本領であって、僕の恐怖が過剰なのだろうか。
戦場では恐怖に劣らず猜疑もまた繁茂する。
後ろから耳障りな音が聞こえてきた。最初は、口を開けたまま食うから、下品な音を立てるのだと思った。だが、そうでもないようだ。内容物が唾液と攪拌される音ではない。気になって後ろを振り向くと、兵士達はもう食事をしていなかった。舌打ちをし合っていた。舌打ちは僕を通り越し、フロントへ津波のように伝わっていった。
前方で音がした。初めは、試すように単発的に。それから徐々に、間隔が狭まってきて、ととう連打じみたものとなった。
投石が始まったのだ。
僕は好奇心を押さえきれず、前にいる者達を掻き分け、V字型の底に当たる前線まで這っていった。首を上げて前方を見た。
右も左も、陣形の先端あたりから、闇に向かって石が飛んでいた。
兵士らは、両手で石を持ち、首の後ろまで振りかぶってから、腹筋を利用して、体を鞭のようにしならせて投げる。前にのめって両手を腐植土や苔に突っ込む。森の神への礼拝みたいだ。数名ずつでローテーションを組んで、掛け声をかけながら、憑かれたようにそれを繰り返す。
石は、手を離れた一秒後には闇の中に掻き消え、想像の弾道を描きながら飛翔し、音だけを返してくる。
葉や枝や蔦を擦る音、幹にぶち当たる重い音、幹をかすめる軽い音、腐植土に落ちる鈍い音。動物達の鳴き声にとって代わって、物理的音響がジャングルをつんざく。
石の多くは、植物にさえぎられて、本来の効果はないが、極めてまれに、熟れた果実をたたき割ったような音が聞こえた。僕は、吐き気をこらえる。それが、本当に果実であることを願ってやまない。
僕の背後からも音が聞こえてきた。いや、音ではない。声だ。ぶっ、ぶぶ、ぶー。歌声だ。
振り返ると、ニガーが傾いだかっこうで闇の中に立ち、低く歌っていた。やつが、やはり泉の番人だったのか。それともこの歌が、ニガーたちにはやっているだけなのか。判断はつかない。
何のために歌うのだろう。兵士の緊張を和らげるため? 兵士は緊張などしていない。ニガーが、自分の余裕を見せる必要性もない。何かの合図だろう。
投石中の兵士以外は、相変わらずうずくまって前を見たままだ。ニガーは、歌いながら僕から目を離さない。さっきからうろうろきょろきょろしているのは僕だけだ。挙動不審に思われても仕方ない。
よく見ると、ニガーは、木の幹に寄りかかっていた。倒れた巨木の根元から新たに伸びた幹だ。コントラバスを支えにして立っているように見える。僕はニガーをチャーリー・ミンガスと呼ぶことにした。
ニガーのチャーリーは、歌いながら身を屈めると、四つん這いになって僕のほうに向かってきた。何をされるのだろうとすくんでいると、ある兵士の背後で止まり、名残惜しそうに僕から目をそらすと、そいつの尻を頭で押した。
その兵士は自分の前にいる二名の兵士の尻を頭で押した。その兵士達は、そのまた前にいる二名の兵士の尻を押した。そのようにして、尻を押された兵士は、末広がりの波となって前線へ延びていった。前線はジグザグに模様を形作っているので、後ろから広がってきた三角と前方に延びている三角が連結してひし形が出来た。投石が止んだ。
そのひし形が切り離された。兵士達が踏んづける落ち葉や枯れ枝の立てる音もひし形だ。
最初は匍匐前進でゆるゆると進んでいたが、兵士達が体を持ち上げるに連れて段々加速していき、終には闇の奥へと走りこんでいった。
それにならって、前線の各々の突起部分が後ろの三角形と合体してひし形をなし、陣営から発射された。
ジグザグ模様からひし形を抜き取っても、後に残るのは、ジグザグ模様だ。
陣形全体が匍匐前進した。僕も後ろからせかされて以前の前線の位置よりやや先まで、進んだ。肘や膝で食べ残された食料を踏んだ。いやな感じだ。
僕は、さっきまで?字型の底にいたために、今度はジグザグの先端に押し出されることとなった。
後ろからつつかれなくなったので止まった。
静かだ。何事も起こらなかったかのようだ。
さっきから戦闘の音がちっとも聞こえてこない。敵の反応がない。兵士達はだれも帰ってこない。いつまでたっても動物達の合唱が始まらない。蝉一匹鳴かない。
僕も息をのんだままだ。
この静寂は、なんと不快なことだろう!
森の奥でひっそり起きたことが、あまりに不快でありすぎて、一切が声を失ったのだ。
石が後方から送られてきた。僕のまわりはたちまち石だらけとなる。食料とスポンジも来た。僕は受け取りはしたが、口にしない。それらもまた僕のまわりにあふれた。
やがて、生き物の立てる音ではあるが、野放図な合唱とは異なる、意識的で慎重な音が聞こえてきた。
藪を掻き分け、枯れ枝を踏みしだき、蔦をなぎ払い、何かが近づいてきた。荒い息を吐く音。それが単なる音なのか言葉になっているのか不明だが、僕には、殺すぞ、と聞こえてしまう。
終に姿が見えた。
木の幹の、藪の、熊笹の、葉を茂らせた蔦の、見通しを悪くするすべての植物の後ろから、口々に、訶っ、と叫びながら、顔を、体の一部を、半身を、そしてちらりと全身を、のぞかせたのだ。
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