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ネヴァーランド

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目に入る。鼻にも口にも入る。喉が詰まる。くしゃみが出る。咳が出る。臭い。まわりのやつらもくしゃみや咳をしている。
君ら、平気なのか。それでいいのか。その無表情、粛々とした一途さ。それでほんとうにいいのか。
やつらは石灰の粉を雪合戦のように投げつけてくる。引導としての雪玉だ。僕はもう真っ白け。
周りは白い兵士でいっぱいだ。おしくらまんじゅうだ。身動きが取れない。
大声で叫んでしまった。
良心的兵役拒否! 良心的兵役拒否!
かえって、ふりかかる石灰の粉が増えた。感激のあまり、ありがとうみんな、とでも言っていると思ったか。
えい、もう、良心的もクソもない。とにかくいやだ。いやだ。いやだ。戦争はいやだ。死ぬのはいやだ。
じたばたしながら駄々をこねていると、僕の叫び声と同じくらい大きくて絶望的な叫び声が、かなりの高みから聞こえた。
タダヨシ!
一瞬父かと思ったが、凛々しいボーイソプラノでわかった。ヒトミが叫んだのだった。
ああ、練習の結果がやっと実を結んだ。ちゃんと発声できた。ヒトミも僕の場合と似たような喉の先天的欠陥を抱えているが、僕と同じ発声はできたのだ。よりによって、こんなところで。いや、こんなところだからこそできたのだ。
僕は、ぴょんと跳ねた。泣き笑いの顔になったと思う。極めて醜いはずのそれを、ヒトミに向けて、うんうんとうなずいた。
ヒトミは、ニガー達に担がれ、排除されようとしていた。
僕は声が出ない。
たちまち、ヒトミの、涙と泥でまみれた顔と、もがいている痩せ細った体は、兵士達の頭に遮られて見えなくなった。
これが今生の別れとなってしまうのだろうか?

54)

兵士の体にまぶされた石灰の粉は、斜めに当たる日の光を受けてハレーションを起こし、むしろ美しい。その臭いにも慣れてきた。しかし、恐怖には慣れない。
殺される恐怖と殺す恐怖の両方が僕を征服してしまった。
これから起きることを想像してしまう。例えば、目をつぶって敵陣に突入する場面。敵に追われて逃げ惑う場面。殺されるか殺すかの瀬戸際で、一瞬躊躇する場面。
僕は震える。歯の根が合わない。全身の力が抜けそうだ。何とかして逃げられないものか。
きょろきょろしても仕方なかった。すきまがない。周りに押されて、少しずつ広場の左側へ移動していく。兵士達の頭の向こうに、熱弁を振るうモーゼの上半身が見える。それが段々遠くなる。
蛇の篭の前を過ぎた。広場の縁についた。
いのししの群れが獲物を求めて侵入するように、ジグザグ模様の最前線は既に草原を降りてジャングルに入っていくところだった。
そこから音が這い上がってきた。
蝉の音は、気違いじみているほどにかしましい。鳥達は奇声を発し、沢山の得体の知れない動物達の咆哮が聞こえてくる。目を凝らすと、木から木へと飛び移る何者かが見えた。樹林の葉は薄黄緑色から黒に近い暗緑色まで、斑状に塗りたくられていた。甘酸っぱい樹液の臭いが漂ってきた。はるか下方には湖面が白く輝き、対岸の山々は霞で薄紫に煙っていた。彼岸のように現実感がない。
僕は、そこに向かって斜面を降り始めた。たちまち滑って転んだ。二回蹴飛ばされた。
で、後ろ向きに降りることにした。
それがよくなかった。ぞっとした。兵士達の恐ろしい顔が延々と並んでいた。据わった目は、既にあの世を見ているのか。
兵士の向こうに奴隷達が見えた。ついヒトミを捜してしまう。戦場までついて来るのか、どこかでお仕置きを受けているのか。
奴隷の列は、我々より先に既に戦線の先まで延びているようで、奴隷はもう進んでいなかった。食料と酒をバケツリレーで、先に送っていた。
その後ろにニガーが点々と立っている。陣容を監視している。
逃げられない。脱走兵は、即刻死刑だ。前も地獄、後ろも地獄なのだ。
僕は、あくまで逃げる道を見つけようと努めるか、戦場に赴くか、どちらの道をとるのかと、何者かに問われていた。 
ふと迷い、そして、前を向くことにした。前とは湖のほうだ。
瞬間で、えらい判断を下したものだ。まわりの奴らと運命をともにする決意をしてしまった! なぜそうしたかは、今後検証しよう。今は自分でもわからない。
火葬場を水平に右手に見る位置まで降りてきた。前方にはジャングルが迫ってきた。
僕は、中に入ることに対して、運命を奴らとともにすると決意した直後で、いまさらながらなのだが、極めて大きな抵抗感を持つ。
これまでの経験から、ジャングルの怪物達の恐ろしさを弁えているせいだ。メインの敵に加えて、ジャングルの怪物達とも戦うという負担が生じないか。さらに、陣形を整えた正規軍は、ジャングルでの戦いでは、ゲリラ攻撃されると、もろいのではないかという疑いもある。正規軍と言っても、その実体は、戦死を期待されている酔っ払いの群れに過ぎないのだし。
後ろから押された。
仕方がないな。
急に暗くなり、涼しくなった。
生き物達の圧倒的な鳴き声と臭いと気配が、八方から襲ってきた。
蝉にオシッコをかけられた。
僕は、ちびりそうな緊張状態に閉じ込められてはいるものの、かつて恐怖に駆られて逃げ回った森の、畏れに満ちた息吹きに再び会えて、実は少しうれしい。
日の光は、わずかな葉の隙間を通して兵士の白い体を輝かせる。光の経路をさえぎる葉の枚数が少ない場合は、照度が低くなる代わりに、葉緑体というフィルターを通過するので、兵士の体は薄緑色となる。上からは、恵みのような光だけではなく、小鬼のようなヒルやダニも降ってくるが。
足もとは、厚い腐植土に覆われていて、ベッドのようにクッションが効いている。そこからも臭いが立ち上る。
時々何かを踏み潰す。
出てきた粘液が僕の重心を狂わせる。
環境の圧倒的な刺激圧で、五感、六感が色めき立っているので、当然、結果として性的な昂ぶりが引き起こされてもいいはずだが、そうはちっともならない。欲望の優先順位はどうなっているのだろう。
僕は、楔形に切れ込んだ前線の谷底から三列目にいる。
その切れ込みの中に、蔦と棘を掻き分け跳ね飛ばし、何者かが走りこんできた。
頭、手首、腕、胴に、くっつき草を巻き付け、それに葉のついた小枝を刺して、迷彩を施している。森の一部が、せり出てきた感じだ。兵士達は知らんふりをしている。敵ではない。ハットリ族の一員だった。
こちらに近寄ってくる。僕の前に並んでいる奴らが道を空けた。僕の傍を通り過ぎる。汗と息が臭い。やつの頭から蚤が僕に跳んできた。無視する。横顔から判断して、僕が追いかけたあのハットリとは違う。しかし気にはなる。そいつの姿を追って山側を振り返った。いつの間にかニガーがすぐ近くまで降りてきていた。ハットリはニガーに何か伝えると、僕を横目でしばらくにらみ、傍を通ってジャングルの中へ消えていった。
ニガーが大声をあげた。意味はわからない。しかし兵士らは前進を止め、いのしし陣形の切っ先は湖に向けたまま左へ進み始めた。僕も従わざるを得ない。
前方のジャングルが薄くなってきた。光が背後から射してくるので、掌の血管のように立ちはだかる樹木は、立体感を失うほど充分に真っ黒だ。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦