ネヴァーランド
兵士達は散開し、その山を取り囲んで、体に石灰をふりかけ、お互いに、ふりかけあう。
何のためだろう。
敵味方の区別をするためか。異形を装い、敵を脅すためか。傷を負った際に応急の粉薬となるのか。
風に乗って白粉が漂ってきた。こんなに石灰が臭いとは思わなかった。このにおいが敵を怯ませるのかもしれない。
続々と兵士はやってくる。石灰の粉塵が、もうもうと広場中央に立ち昇り、背後の白煙と混じりあって西の山腹を這い登っていく。
真っ白になった兵士は、モーゼの前で横に広く並ぶ。
依然として低く掛け声をかけあいながら、うっ、あっ、うっ、あっ、陣形を組んでいく。
小隊、中隊、大隊、連隊、旅団あるいは師団等の概念はないようだ。指揮官さえいない。
前方が形を整えてきた。
チュートン騎士団と同様の、いのししの陣形だ。
鋭角のジグザグが前線に出来た。
ひし形の塊がここから抜けて飛び出ても、残りはやはりいのししの群れの形だ。
ひし形を出しながら、兵士の供給が後からある限り、陣形は崩れない。中身を新陳代謝しながら同じ形態を保つ。まさに生命そのもののような、必勝の陣形だ。
陣形は、掛け声以外は無言のうちに、手際よく、すみやかに、滞りなく出来ていく。
酔っ払い男達の所業とは思えない。よほど慣れているのだろう。すでに伝統の威厳を放っている。
市民兵士は、徹底した酔っ払いだ。
僕は、だんだんわかってきた。
戦争があるから四六時中酔っぱらっていたのだ。
彼らは、有閑市民の立場を保障され、酔っ払いの一生を保障された使い捨て兵士だ。
男の市民は、まず遺伝子供給者としての意義がある。女の市民は、子孫生産者で養育者だ。
遺伝子を供給した後の男は、生物としては用がなくなる。なるべくならば、早く死んでもらったほうが都合がいい。だが、帝国としては、兵士として、使用価値はある。双方の観点を止揚して、本来は少数である特攻隊を集団化し、平等化し、当然化する。
悲劇的なロマンチズムが強制的に発生させられているのかもしれない。
市民と少年とは、遺伝子を提供したかしていないかによって区別される。帝国では、少年は、モラトリアムを飛び越えて、すぐに遺伝子提供者になるらしい。僕のように。
男の市民すべてが特攻隊員なのだ。酒とバラの日々を与えられて、今生の快楽に飽きるほどになって、戦闘に駆り出される。半醒半酔のまま戦場に送り込まれて死ぬ。
戦争によって、帝国は、新陳代謝を遂げる。
遺伝子をとってしまった男を戦わせて死なせ、その代わりに奴隷を得て、インフラ維持に当てているのだ。異民族であり、敵であった捕虜を大量に帝国に引き込み、馴化するところは、開放的に見えるが、市民の女との交配は一切ない。戦場は、労働力として価値のありそうな敵兵は捕虜にし、そうでなさそうな者は殺す選択の場ではなかろうか。
このような体制を構築したのは誰か。モーゼ達か、あるいはモーゼだけか。……父か。
モーゼの演説は、いまや佳境に入り、同調する蛇の口は、歯を折らんばかりに大きく開閉している。
兵士らが、白塗り化粧をしている間、兵站部の流れが止まった。僕は、戦闘用に並べてあるごろた石の上に乗り、モーゼを観察する。
耳を澄まして、いくらかでも聞き取ろうとする。
文字を持たない言葉は、発せられる端から消えていく。今まさに行動に赴こうとする者に向かって、階層的な、構築的なことを言っているはずはない。
しかし、単純繰り返しとは聞こえてこない。
この長いアジ演説は、異様だ。
モーゼと、その周辺を、深い関心を抱きながら観察した。その結果、仕掛けの一つがわかった。びっくりした。
モーゼの足元、蛇の右のエラに寄りかかるように、小さな白っ子がうずくまっていた。アルビノだ。
僕が演説したとき、体育館にいた。あのときから体が成長していない。
その白っ子は、モーゼの演説の文の出だしを小声でささやいていた。白っ子がクロコの役を果たしていた。
こいつが真の指導者である可能性がある。
白っ子が咳をする。次の文をモーゼに伝えようとしてつまる。モーゼはあたりを睥睨しながら待つ。見ているこっちもひやひやする。
モーゼは張子の虎、張子のモーゼなのか。単なる傀儡、象徴君主なのか。
あるいは、白っ子は、ヒエダノアレイで、この出陣のときにこそ、愛国心を高揚し、集団的アイデンティティーを再確認すべく、自分達の神話を語り聞かせている……? まさか。
あるいは、多数の演説ライターの一人であって、たまたま今回抜擢されただけなのかもしれない。気に食わない言葉を用意してきたらすぐ首を切られるような、君主、大統領、首相等が雇っているやつ。
さらに恐るべき観察結果を僕は得た。粛々と死化粧をする男を、後姿、横顔、斜め前、次々によく見た。どうも腑に落ちない。
市民兵士達が、モーゼと白っ子の関係を現に間近に見ているのに、平気なのだ。当たり前のことと思っている。
彼らが酔っているせいで、そう見えるのかもしれない。
モーゼと白っ子の関係がどうであれ、支配者サークル内部のことだから、関心がないかもしれない。自分達は諦念に沈淪して暮らしているからどうでもいいのかもしれない。
だが、彼らの平然としすぎた表情には、権威ある支配者に対する崇拝の気持ちが少しも見られない。
より基本的に考えてみよう。働かず、酒ばかり飲んでいる生活を、支配者が許すだろうか。禁酒法はあっても、飲酒奨励法はないだろう。戦闘直前ならば、デイリ、殴りこみ、出撃の際、酒を飲ませることはあるだろうが、日常的に飲ませることは、社会の退廃を招き、いざというときの戦闘力を劣化させることになるので、支配者はやらないだろう。
そこで、可能性は少ないが、モーゼと市民との関係が逆であると考えうる。市民が問答無用といった態度で、飲酒の権利を行使しているとしたらどうだろう。市民が象徴君主かトリックスターとしてのモーゼを要請しているとしたらどうだろう。クロコを認めるのは、見ている光景を芝居だと前もって知っているからだ。
現体制を構築したのは市民ではないか?
虚構の構図があるからこそ、市民兵士達は安心して、来るべき戦死と交換に、現在の酔生を享受していられる。市民が主権者であり、自分達を支配し駆り立てるものをデッチ上げ、自らの位階と運命を設定しているとしたら、そのニヒリズムは、はかり知れない。
モーゼが支配者であれ、市民が主権者であれ、帝国は繁栄し、結局戦争は繰り返される。
いったい、これでいいのか?
よくない。当たり前だ。
僕の憂愁は更にさらに重くなる。この現状に抗して、何もできない僕は、とてつもなくふがいない。何事かをなそうとここに乗り込んできたのに、なんだ、このざまは!
妄想にふけっていた僕は、監視者であるニガーに突き飛ばされた。
おいおい、なにするんだ。
戻ろうとしたが、そのニガーは、僕を兵士の群れへ、怪力を振るって押し込んだ。
……そうか。しまった!
長い間川と泉に浸っていたので、汚れが落ちてしまい、見かけ上は市民と区別がつかなくなっていた。だから、ニガーは僕を、居る場所を間違えた泥酔市民だと思って、押し込んだのだ。
違う、違う、誤解だ、僕は奴隷だ。ちょっと、待ってくれ。
兵士らが、僕に石灰をまぶした。