ネヴァーランド
仰向けのまま、足から小川に入っていく。
大型動物や、見張り役のハットリ一族に見つからないように、目、鼻、口だけ水面から出して、体は水中に隠す。水遁の術を使うのだ。
流れは速い。脱力した体は、流れのままに、くねり傾く。瀬音が高く大きいが、耳に心地よい。岩が尻や背中に当たるが、痛くはない。魚がつつくのは、むしろ歓迎するほどだ。
小川に沿って、流れに逆らうように漂っていた霞が消え、空の色が紺色から水色へと変わっていく様子がわかるようになった。下弦の月も色薄くなっていく。
蝶や蜂が顔の前を横切り始めた。
ふと睡魔に襲われた。三十七秒寝たところで額が痒くなった。目を開けると、かすかな風が短い周期で額に吹いてくる。事態を察して目をつぶろうとしたが、その前に薄黄色の蝶が飛び立った。不運にも僕の額にとまり、見開いた際に出来た皺に足をとられたのだ。空中に、いろはを書きながら逃げていく。足の一、二本を皺の隙間に残したせいで、バランスが取れなくなったのだ。悪いことをした。
視野の左右を縁取る密林からは、鳥達のさえずりが降りてくる。鳥そのものさえ、翼を体に押し付けて僕をめがけて急降下してくる。あるいは、周りで跳ねている小魚を狙っているのかもしれない。
空は、密林で左右を区切られた、この小川の鏡像で、落下してくる鳥もまた、跳ね上がる小魚の像であるかと思われた。僕は、自分の姿も空のどこかに映っていないか、と探したりして、しばし楽しんだ。
僕は岸辺に寄り、這って小川から出た。
葦の原を突っ切り、ブッシュに入る。樹林帯の縁に沿って登る。
殆どの肉食動物は夜行性だが、昼ひたすら寝ているわけでもない。近くを通り過ぎれば跳びかかって来るはずだ。
ハットリが僕を見つければ、一目散に走りかえって、モーゼに告げるだろう。
頻繁に後ろを振り向く。澄ましすぎて耳が痛くなってきた。
密林とブッシュから離れ、疎らに丈の低い草の生えている斜面を太陽にあぶられながら登った。
ようやく、突き出た顎のような清水の舞台の下に着いた。
玄武岩の路頭が、凹凸を繰り返しながら広がっていた。勾配が急なだけで、広さは帝国前の広場に匹敵するほどだ。
大量の白骨と干からびた皮が散乱している。
新しい死体は、ヴァイオリンじみた羽音を立てながら昆虫が全面にたかっているので、真っ黒だ。
僕は点々と横たわる新しい死体に、枯れた草木を密林の縁からもってきてかけた。その度に、昆虫達が、手で上から塞ごうとした噴水のように、飛び立つ。死体を中心にした虫の円盤が水平に一気に広がる。
すべての死体にかけて小山を作ってから、それら同士も枯れた草木でつなげる。点を線で結ぶのだ。
僕は最も下に位置する小山のそばにうずくまった。
水晶を口から取り出し、つばを枯れ草でぬぐうと、陽にかざして、屈折した光線の行方を確かめ、焦点を合わせる。やがて煙が立ち昇り、待つほどもなくオレンジ色の炎が沸き立った。
僕は今まで実際には火を見たことがなかった。ましてやそれを熾すことは初めてだ。
火元から次々と火の子供達が走り出て、枝、茎、葉を伝って火を撒き散らし、そこを元にまた火の子供達が走り出る。炎はたちまち大きく成長し、合併し、さらに大きくなり、音を立て始めた。小山の半ばが火と煙に包まれた頃には、導火線を伝って別の小山へ火は燃え移り、第一の小山の燃え上がりを繰り返し始めた。
蛋白質が焼ける臭いらしいものを嗅いだ。
興奮と熱気で僕は汗を滴らせる。燃焼エネルギーの妖しい揺らめきを見つめていると、引き込まれてもいいという誘惑にかられる。飛んで火にいる夏の虫の気持ちがよくわかった。
岩だらけの斜面なので、延焼はないはずだが、念のために、周囲を点検してまわった。
清水の舞台が、影を落とさない周辺部は、炎熱によって岩石が風化し、ぺんぺん草も生えない土漠となっている。そこを火は渡っていけない。
大型動物や鳥類は火に近寄らない。飛び込んでくるのは昆虫ぐらいだ。
つまり、ここは、誰も寄せつけない、周囲のジャングルから孤立した火葬場になるはずだ。
僕は小川に戻る。木の洞に水晶を隠す。今後も使う予定だ。
岸辺で砂場を探し、穴を掘って顔だけ出し、砂に包まれて眠った。傍らにアヤカのいる感触があった。
夕方に目覚めた。
小川の浅瀬を這って遡る。手足が水を切る音を、できる限りせせらぎの音に近づけた。木を登るときより、降りるときに、より注意を払うべきであるように、小川を下ったときより、警戒の度を強めた。
泉の入り口で潜る。水中でニガーのハミングを聞く。
ニガーが、気がついているくせに、わざと注意しないのかもしれないと疑う。それは怒鳴られるよりも怖いことだ。
余計な憶測は打ち切るべし。
水中の岩の形を見極め、正確にもとの位置に戻る。両足をそっと岸に突き出し、尻から上がる。正確にもとの位置に待機していたヒトミが、手助けしてくれた。
僕は、無事に帰れたことを、偶然の神に心から感謝した。
広場の端を列に混じって帝国内に戻る途中、清水の舞台を窺うと、投げ込まれる遺体の向こうに、うっすらと白い煙が立ち昇っていた。
行進している間も、作業中も、奴隷仲間達は、僕をじろじろ見た。ヒトミに至っては、何度も手で触ってきた。長い間水に浸かっていたので、宿痾のような汚れがとれたからだ。僕が奴隷であると周りが判断できたのは、泥と垢で、汚れに汚れ、悪臭を発散していたからだ。
仲間の視線に、明らかな落胆を僕は見出す。
僕は彼らと仲がよいわけではない。だが、生存形態が同じであるだけで、容易に共感できる部分もある。共感は出来なくても、多分こういう気持ちなのだな、と見当はつくようになった。
彼らは僕をいじめるのに飽きた後、一転して、気を許した様子を見せるようになり、やがて、あたかも昔からの仲間同士であるように、話しかけてきた。ところが、言葉が殆ど通じない。僕が、彼らとの会話を回避できたのは幸いだった。その内容が、愚痴であることが、身振り手振りから察しられたからだ。
愚痴を言うと、相手がいかに忍耐強く聞いたとしても、否、そうであればあるほど、言う者は、聞く相手を、愚痴を聞くほどに既に耳が汚れている者、愚痴を捨てるにふさわしいゴミ箱の類と思いかねない。愚痴を言った後清々するのは、相手に対する優越感のせいでもあるのだ。
彼らは、愚痴ることで、下意識、をますます強めていく。愚痴で不平不満を霧散してしまって、それを持続的な反逆精神に昇華しない。ニガーが奴隷達の私語を禁止しない理由がわかる。
愚痴を聞かなかった僕は、彼らに貶められることもなく、弱みや愚劣を共有することで友とみなされることもなかった。
これは彼らにもプラスに働いたと思う。僕の顔を見るたびに、こいつとはああいう話はできないと思っているうちに、僕以外とも、ああいう話、を段々しなくなったのだ。僕が、彼らの愚痴話を傍らで聞いていて、意味はあまりわからないものの、その大げさな怒りや、嘘泣きや、虚勢にうんざりしているのが伝わってしまっていたのかもしれない。
僕のほんの近辺の者に限っては、わが身を嘆き僻んで逆上するという機会が減ってきたように思う。
僕と彼らの間柄は淡い。