ネヴァーランド
僕は、たくらみと反省を、自分一個の中で繰り返し、自分の外には負の結果を蓄積していくだけになるかもしれない。
犠牲なしに、正の結果を得るためには、権力を得るしかしょうがないのだろうか……
僕は、権力を自己目的になどしていない。
権力欲という、権力を手段ではなく、欲望のレベルでとらえる発想を理解できない。
エゴの肥大も嫌う。僕にエゴが生じるのは、僕が自分の行動の軌跡を顧みる時だけだ。行動の最中には、エゴなど消えていると思う。身の危険を感じて逃げたとしても、ここで死ぬのは、行動目標の達成にマイナスだと思うからに過ぎない。エゴを救済しているわけではない。
自己顕示欲もない。顕示するのはむしろ恥ずかしい。しかもそれは、あれば、の話だ。
普段、考えたり感じたりはするが、自己は、持たないし、持てない。いつのころからか僕は疑ってきた。顕示するために自己は捏造されるのではないか?
我欲というものがそもそもほとんどない。僕が欲するのは、僕と遺伝子を同じくしている?類?の不幸を減らすことだ。
こういう僕のパーソナリティーは、特殊と思われる生育環境によって、偏奇している可能性がおおきい。施設日本を後にしてからの、旅の経験と帝国での生活が、それをさらに偏らせこそすれ、中和したとは思えない。しかし、仕方がない。これが僕の与件なのだ。
このような僕、そして奴隷の僕が、だれも了解していない企みのために、パーソナリティーだけをとりあげても真っ向から対立する権力に、近づこうとしても、それは無理であり、不自然だろう。
思い付きを恥じよう。
ところで、困ったことには、頭の中で秒をカウントする声が止まらない。
51)
ある日、東大路での作業を終える前に、水を飲みに来た市民にまぎれて、僕は洞窟へ入った。水場へ続く坂は、早くも踏み固められている。
もう惨劇現場に遺体はない。今は清水の舞台下だ。
僕は甘露極まりない鴨川の水を飲み、立ち上がる。辺りを窺い、僕を見る者がいなくなるまで待つ。目をつけておいた大木じみた石筍の裏側に隠れる。手のひらが張り付く。石筍に氷が張っているのだ。
石筍から石筍へと身を隠しながら進む。以前来たときには気がつかなかったことがわかってきた。
洞窟は、巨大な円筒を横倒しにした形状をなす。石筍や鍾乳の色が茶褐色で、表面が滑らかさに欠けるところから、鍾乳洞ではなく溶岩洞であると思われる。溶岩が流れて抜けた後の殻だ。
僕の期待は高まる。
はるかな天井は、揺れ動く満天の星でさえぎられている。蛍光を発する生物が垂れ下がっているのだ。それに見とれて岩に足をとられる。
懲りずに抱く新たな目的に沿って、やや膨らんだ形をした石を見つけては、手に持った石で割っていく。
十数回目で、目指すものを見つけた。
二つに裂けたイチジクの実のように、内部に向かってたくさんの角を出した水晶の塊が現れた。
僕は、見とれる自分を戒め、実の真ん中を石でたたいた。
こぼれる水晶のかけらの中から、ふさわしいものを一つ選び、口に含んだ。割れた部分に小石を詰めて、水晶が見えないようにしてから、坂道まで引き返した。
帝国の外に出るには、どうしても奴隷の列に入っていなければならない。市民は出入り自由だが、奴隷はそうはいかない。大ホールへの出口、外への出口、いずれも番兵が固めている。出る素振りでも見せたならば、奴隷はたちまち捕まえられ、殴ったり蹴られたりしてから、追い返される。
木の実食堂では、うっかり飲み込まないように、水晶を手に握って隠し、食事をした。
木の実食堂の位置は、少しずつずれていく。多数の奴隷の食糧を一箇所でまかないきれるわけはない。帝国の領有する広大な広葉樹林帯に、種実をつける林がまだらに分布している。そこを食堂は移動していくのだ。奴隷にはめったに口に入らないが、果実や芋も豊富であるらしい。食べかすは時々見かける。
増大していく人口に応じて、領土を拡大する必要があるだろう。この豊かさを狙う外敵も跡を絶たないだろう。
泉では、ニガーがまた泳いでいた。空に向かって、ぶっ、ぶぶ、ぶぶー。
僕は歌詞を解読しようと努める。
市民の話し言葉を直接聞くことは稀だが、ニガーと奴隷の言葉は日常耳にしている。ニガーは、市民と共通の言葉を使っていると思われる。彼らが用いる個々の単語の多くは、ああしろ、これが欲しいといった命令語や要求語だ。単語同士を構成する文法を、僕は把握しかねている。それは、ないのかもしれない。
ヒトミも含めて奴隷の言葉は、異民族のものだ。その抑揚はむしろ美しいが、単語同士が頭と尻尾を重ねあい、分節化を拒んでいる。単語がないのかもしれない。音楽で通信しているのかもしれない。
これらの不思議な言葉だけで、帝国を構築し、維持できるとは考えにくい。言葉とは別の、隠然たる強い力が働いているはずだ。
ニガーは気分よさそうだ。その気分に同調するような内容の歌詞なのだろう。いくつかのフレーズが繰り返されているから、次に何が来るかはわかる。だが、残念ながら意味を解き明かすことはできない。
僕は、ヒトミを実験台にして、こちらの言葉を教えていこうと思いついた。コミュニケーションを成り立たせることだけが目的ならば、そのほうが早いと思われる。彼らを理解しようとする気持ちが、このような発想の転換を今まで阻んでいたのだ。
僕は、右肩で、隣にはいつくばって水を飲んでいるヒトミを小突く。
ニガーを警戒しながら、僕は、タダヨシ、とつぶやいて、両腕を浮かし、ジャンプの真似をする。ヒトミが、僕に呼びかけられて、跳び上がるように。
ヒトミは目を見開いたまま思案している。
僕は、ヒトミ、とつぶやいて、彼の両腕をつかんで引っ張り上げ、落とす。
ヒトミは、深く思い悩んでいるようすだ。
また練習しよう、これからしなくてはならないことがあるんだ、ついて来るなよ、と僕はささやいた。
まずい。ヒトミの混乱をさらに増大させてしまった。彼は泣きそうになっている。
僕は、頬と下の歯の間に挟んだ水晶を、舌で確かめてから、大きく息を吸い込んだ。
ニガーが空を眺めているのを確かめ、頭から水にもぐりこんだ。
ヒトミの口から、かすかに嘆声が漏れた。
水の中でもニガーの歌が聞こえた。ヤツは気づいていない。ほっとする。
ドルフィンキックで、泉から流れ出る小川に向かう。
向きを変え、仰向けになり、額越しにニガーと奴隷達を窺う。ニガーは依然として気づいていない。奴隷達は面を伏せて一日分の水を飲むのに専念している。
僕の右隣にはヒトミがいたからかまわないが、左隣のヤツはどうしているか。さすがに驚いたのではないか。
ヒトミがそいつをかまっている様子が見えた。そいつにぴったり寄り添い、なにやら語りかけていた。ありがたいことだ。
ヒトミの、私心のない、邪心のない、僕への献身に対して、僕は、?お返し?をしているだろうか。友情に、そんなことを持ち込む必要はないかもしれないが、友情ではない可能性が、最初の夜を思い出せば、大きい。
ヒトミが、まだ子供のときに強制されたしきたりに合わせることはないが、一方それは、ヒトミの尊重すべき与件でもある。
いっそのこと、一度くらいなら、目をつぶって、体を与えてしまおうかしら。