ネヴァーランド
彼らの生態を観察せずに、すぐに飛びつくとえらい目に会うのは、僕が経験済みだ。だが僕にはこの危険性を伝える手段が今のところない。せいぜい、ヒトミに飛ぶ真似をさせて、彼らにアピールし、いざ襲ってきたら投石で応戦することぐらいだ。
窓を広げず、利用しないときには閉じるようにできるかどうか。
関門を広げると、冷気が帝国内に流入する。
洞窟は、帝国に比べてはるかに巨大だ。僕が見渡した限りでは、果てしないほどだった。
その蓄冷量は莫大であり、亜熱帯を冷帯化してしまう。環境の変化は、帝国の居住性を劣化させる。
このような問題を抱えつつも、不衛生な水場はなんとしてでも封鎖せねばならない。感染症の蔓延を防がねばならない。
?一奴隷にすぎないのに、身の程知らずだ。傲慢だ。ほっておけばいいのだ。公共への愛と献身など、お前には最も縁遠いことだ?
悪魔のささやきが聞こえる。
そうかもしれない。
僕は、個人的な生存状況に限っては、たとえ奴隷の身であっても、それを受容する。ここで生きられればいいのだ。
それだけですまないのは、僕が抱えている責任感のせいだ。
責任とは何か。
複数の選択肢があるとき、自らの自由意志で一つを選んで行動し、負の結果が出た場合、状況を回復する義務を負い、また懲罰を受けるという認識のことだろう。
僕がヘビの骨がなす籠から飛び出したとき、彼らが、自分達の現状をもたらした張本人が現れたと即座に認めたのだとしたら、あの暴行は、即決裁判の判決言い渡しであり、今の奴隷の身は、懲罰に当たるだろう。
僕のわがままと勝手な思い込みで、彼らを外の世界へ駆り出してしまった。彼らの、平和を満喫したあまりの、贅沢な脱出願望を、僕は本気にとった。うまくやれるだろうと、幻想を抱いてしまったのだ。彼らの今を作ったきっかけは僕の判断にあった。
すかさず悪魔がささやく。
?お前はいったい何様のつもりでいるんだ?
お前は、過去から未来へと流れる多種多様な流れの束に過ぎない。一瞬垣間見える定常流に過ぎない。そこではじける泡たちを自由意志などと称するのはお笑い種だ?
僕は父を脅迫してまで、自らの提案を押し通した。僕の意志が存在したのは明らかだ。
?ちがう。外の世界を知った以上、お前は友人にも仲間にもそれを知らせざるを得なかった。知識は必ず拡散するのだ。彼らの住む閉鎖社会を相対化し、外との統合を図らざるを得なかった。現象は正、反、合と進行する。較差は平準化する。自由意志などどこにもない。
そもそも、お前が外の世界を体験できたのは、偶然のきっかけによる。
お前はもう気がついているだろうが、あの、不協和音に満ちた交響曲がクライマックスに達し、突然シャッターが跳ね上がったのは、雷が落ちて電気系統が遮断されたということだった。偶然の出来事だった。
今のお前は、必然と偶然が織り成した産物だ。雪の結晶が、見事だからといって、雪に意志があると思ってはならない?
僕は、この絶対無責任論を拒否する。
流れの束としての存在から、行為し、その結果を受容するまでの過程の或る地点で、私、が生じるはずだからだ。そのような過程自体を見ている者がおり、それを私と称してかまわないと思うからだ。
僕は、私、の行動の結果がマイナスに出たと判断する。
彼らは、父の庇護の下に、安全に平等に暮らしていた。彼らは、父の生徒であり、僕の仲間だった。
牧歌的だった施設日本に比べて、この帝国は偽りの平和をやっと維持しているに過ぎない。かつての施設もそれなりの秘密を隠していただろうが……
?最大多数の者たちは、安定した安穏な日常を享受しているのだ。帝国はうまく運営されている。彼らがその本能に従って構築した。不幸なのは奴隷であって、市民は不幸ではない?
そうではないと僕は思う。市民の日常は、奴隷労働に、さらには奴隷を生み出した戦争に支えられている。不幸に乗っているその構造自体が不幸なのではないか?
さらに,重大な疑惑がある。市民の安穏は何との交換によって保障されているのか?
このような社会は、本能だけで出来たとは思えない。本能と教育の不幸な混交の結果ではないか……?
気のせいだろうか。悪魔のささやき。声が、父だなあ。
50)
僕は、久しぶりに東大路を北に向かいながら、これから取り組むここ特有の作業を思い描く。今までに落とした土砂は、窓の正面に立つ石筍の、下二割を埋めたに過ぎない。ピラミッド型に底辺を広げるばかりで、なかなか積み上がらない。大路まで達するのにあと何回作業が必要だろう。協力する者を増やすべきだ……
ところが、そんな思案は、突然沸きあがってきた胸騒ぎによって断ち切られた。
それは急速に亢進してきた。
以前、水辺で何度も経験した冷気が、今そっと顔を撫で、体を包み、悪寒を走らせるのだ。
ざわめきが聞こえてくる。気温はさらに下がり、水の匂いと我々のとは異なる糞の臭いが漂い、ついに怖れていた光景が目の前に現れた。
関門周辺は、いくつもの他の班で、ごった返していた。道いっぱいに、五本の土砂の流れが、出来ていた。それは拡張されていく開口部に投下される。怒声、おしゃべり、壁を崩す音、岩や土砂の落下する音。それらは、洞窟の奥で跳ね返り、もとよりも音量を大きくして、木霊となって返ってくる。
雑踏の中に、ニガーたちに囲まれた、指揮官らしい男を見つけた。
褐色の矮小な男だ。顔つきがモーゼによく似ているものの、体の大きさは三分の一だ。モーゼの弟である可能性がある。顎を突き出しては甲高い声で命令を出し、俯いては、独り言なのか、口をもぐもぐさせる。とにかく口の動きに休みがない。体もちらちらとよく動くので、ニガーたちはそれに応じて道を開けるのに大忙しだ。
僕はこの男に開口部を広げるなと直訴しようと考えた。身振り手振りで何とか表現せねば。
列から飛び出した。ヒトミが僕の胴体にしがみついたが、それを振り切って近づいた。たちまちニガーに押し戻された。何度か試みたが同じことだった。小モーゼには近づけない。最後はニガーに殴り倒されたが、その直前に、小モーゼと眼が合った。思い出そうとするかのように、その眼に圧がかかり、金色にきらめいた。
僕は作戦を変えた。開口部を広げている場所まで走った。壁を撃ち叩いている者の腕をつかんで、握り締めている尖った石を奪い取ろうとした。そいつは腕を振り払った。石が僕の頬を裂く。僕はめげずにその腕にくらいつく。
もめていると、首を後ろから掴まれた。ほおり投げられた。見上げると、ニガーが歯をむいて悪態をついていた。僕を体当たりで突き飛ばし、土砂運搬の列に足で押し込んだ。
僕は悔しさに歯軋りしながら上の空で作業した。
なぜ、関門のありかがわかったのだろう。見て周囲の壁と判別できないようにだけでなく、水音も聞こえないように、入念に穴をふさいだのに。恐らく、一緒に作業をしていた奴隷の誰かが御注進に及んだのだろう。
大量動員はめざましい成果を生んだ。
小モーゼは、大声をあげて作業を終了させた。大路から洞窟の底までの坂道が、終了時刻のはるか以前に出来上がった。
ニガーも奴隷も、僕とヒトミも含めて、しばしの間立ち尽くして洞穴を見下ろした。
小モーゼが再び怒鳴った。