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ネヴァーランド

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太陽はいつも円形だが、月は日々満ち欠けに怠りないから、時の経過をヴィジュアルに示す。だから、施設を出た満月の日からどれだけ経ったか分かるはずだが、頭に浮かぶ月の影がてんでにバラバラなので、見当がつかない。日単位だけでなく、時間や分レベルでも、僕の感覚は狂ってしまっている。
峰から時たま冷風が吹き降りてくる。僕は、しばしのあいだ、高山植物が咲き乱れる冷涼な別天地で遊ぶ自分を想像した。
宵闇が段々深まる中、我々は、例の水飲み場と木の実食堂に連れて行かれた。
ニガーに見張られた集団が、あちこちに散らばって飲食にいそしんでいた。
ニガー以外にも監視役がいる。
広場の縁の崖の上で、腕組みをして立っている奴。ハットリ、あるいはその一族の者だ。
木から音もなく滑り降り、静かに泉で喉を潤すと、再び登って枝と葉の奥に消える者もハットリ組だ。
監視する者もされる者も、静かで、落ち着いている。特に奴隷達は、なぜこうも自足した様子なのか。うらやましいくらいだ。
水、食料、居住、安全を保障されているからだろう。言語を介さなくても、何らかの手段で、洗脳されているのかもしれない。まず散々痛めつけられ、抵抗や逃亡が不可能であることを思い知らされ、徐々に甘いあまい飴を与えられて、飼い馴らされてきたのだろう。牢名主のジジイのような追従者も出てくるわけだ。
僕も同じようになるのだろうか。まさか。だが、ほんとうに、まさか、か?

僕の奴隷としての日常が始まった。
土砂運搬と、一日と思われる単位で一回の飲食と、睡眠で成り立つ単純な生活が繰り返された。
固定した部屋単位で行動するわけではない。何らかの基準に基づくのだろうが、作業場所はしょっちゅう変わり、収容される部屋も変わり、仲間の顔ぶれも変わった。親密にさせないように、との魂胆があるようだ。
土砂運搬ではない作業もさせられた。
部屋を掘ったり拡張したりする作業、あるいは、横穴を掘って幹線とつなげる作業だ。
あちこちに派遣された。幹線と横穴が何本も交差している。目的の場所に行く時も、寝場所に帰る時も、直進と右折左折を繰り返すので、夢の中を歩いている感じがした。ついには、得体の知れない場所に閉じ込められたという、慢性的な閉所恐怖症にかかってしまった。
僕は、この事態を収拾するため、交差が直交しているとみなし、頭の中に地図を描いた。
最も太い幹線、恐らくはモーゼの居住地が接する道を朱雀大路と名づけた。その横は、大宮大路、その又横は堀川小路、烏丸小路、と続く。モーゼが出入りするトンネルの口は羅城門だ。横道は、手前から九条、八条と遡り、堀削現場の手前の横穴を一条とした。これでいくと、僕が最初に収容された部屋は、七条烏丸辺りにあることになる。
僕の頭の中で、迷宮はたちまち整然たる大都市となった。閉所恐怖症は霧散した。
ある時、労働に疲れて、三条通を帰る時、ふと垣間見た土塀の破れ目の奥に、若い女の物憂げに横たわる姿を認めた。
ピンクに輝く赤ん坊をあやしながら、乳を含ませている。乳房は哀れに垂れているが、乳首は紫色に熟れて大きい。赤ん坊は、必死で大口を開けて吸い付いているものの、顎が外れそうだ。
僕の体内に、猛然とこみ上げてくるものがあった。それは、肺から気管へとどんどん上昇し、大急ぎで言葉をつけねばならなくなった。
僕は破れ目に駆け寄ると、その女に向かって叫んだ。
「ヘレン! ヘレーン!」

42)

僕が真ん中よりやや後ろに属する隊列は、その時、堺町通へ下ろうと曲がりかけたところだった。だから、先頭のニガーは、たとえ振り向いたとしても、僕の姿は見えない。問題は、後ろについているニガーだった。
そいつは、天を仰いで一声大きく咆哮すると、僕に掴みかかろうと地響き立てて迫ってきた。僕は、へレンから目を逸らさざるを得ない。
ガッデム! 
僕は全速力で堺町通を上がり、姉小路通を左折し、さらに左折を二回繰り返して元に戻ると、へレンの部屋に飛び込んだ。
部屋の隅に縮こまり、嵐が近寄ってこないことを切に祈った。
ニガーを巻いたという自信が持てるまで、随分長い時間が経った感じだった。
今はもう眠っている赤ん坊を堅く掻き抱いたまま、半開きに口をあけ、呆然と僕を見つめているヘレンの美しい顔を、その間ずっと、僕も呆然と見つめていたのではあるけれど。
目の前にいるのは、僕が童貞を捧げた女だ。
誰でも、一度だけ、経験するのだ。
今でも夢に現れて、最初は徐々にアダージョ、段々大胆アンダンテ、我を忘れてアレグロ、プレスト、あの道程を再び生々体験させ、極楽オシッコほとばしらせる女なのだ。
僕は、ゆっくりと匍匐前進した。
さっきのような、激情的な呼びかけではなく、そっとかすかに囁いた。
へレン。僕だ。タダヨシだよ。
懐かしい限りの、大きな、ほとんどが黒目の眼が、ぐりぐり動いてなまめかしい。
開いた口の中で、舌がゆっくり右往左往している。
僕は、やや大きめな声で、全く嘘とはいえない嘘をつぶやいた。
会いに来たんだよ、へレン。
彼女はぼくをじっと見つめている。
そして、ああ、なんということか、とてもゆっくりと、首をかしげたのだ。
おぼえていない? ええっ? そんなことがあるのか?
僕は焦っていざり寄った。
僕だってばぁ。
ヘレンは、赤ん坊を強く抱きしめて、後ずさりした。
赤ん坊が目をさましてしまった。激しく泣き始めた。ああ、僕こそ激しく泣きたいものだ!
その時、複数の、重そうな足音が聞こえてきた。
泣き声を聞きつけて不審に思ったにしては、いやに大掛かりだ。
僕はすぐさま外へ跳び出した。
悲しみにむせ、涙を流しつつ、三条通を東へ走る。
振り返ると、ニガーどもに囲まれたモーゼが、へレンの部屋に入っていくところだった。

43)

僕は、どこから逃げているか。モーゼとその取り巻きから逃げている。モーゼがヘレンの寝所にいるという驚くべき事態から逃げている。
どこへ逃げているか。昨日泊まった、三条通の突き当たり、東山の山腹にあるタコ部屋だ。
どこから、はもっともなことだとわかる。どこへ、はおかしい。
そこへ帰れば、僕を探しあぐねて腹を立てているニガーが、大歓迎するだろう。陣頭指揮して、心ゆくまでリンチするだろう。僕は殺されかねない。
恐怖におののく。機械的に動いていた愚かしさを反省する。走る速さが鈍った。
妄念が、たちまち僕に追いついた。
京都三条石橋の上でわが妹を抱きて……、抱きて、なんだっけ。なにをしたのだっけ。
ここは三条。しかし、石橋はない。橋の下の鴨川もない。だが、妄念は僕を捕らえて蔓延る。僕の足もとの、踏み固められた赤土道路が、摩滅した石板に変わり、その下からせせらぎの転がる音が聞こえてきた。
背である防人が、背中からしがみつくから背の君なのだが、出立前のあわただしい時を盗んで、三条大橋の真ん中で、欄干に妹に両手をつかせて…… モーゼが、ニガーの女房である黒くて太った乳母に、泣く子を任せ、ヘレンに両手をつかせて、その背後から……
僕はおかしくなりかけている頭を強く振った。心身勃然たる状況はたいして改善されない。他の、目下の、差し迫ったことに注意を向けろ。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦