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ネヴァーランド

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ドアがない。彼らがかつて暮らしていた高層アパートには、ドアはあったと思う。ただし、鍵をかける習慣はなかった。鍵がもともとなかった。彼らに仕切りの観念は根付かなかったようだ。必要性を認めなかったのだ。そのような生活を今やっているということだ。
部屋の中にいるのは、見えた限りでは、ほとんどが女だ。そのまたほとんどが子供を抱えたりあやしたり乳や食事を与えたりしていた。少数の男達は眠りこけていた。
僕はどこで立ち止まるのだろう。
枝道は数え切れなくなった。作業の列は延々と不安になるほど続く。迷路のなす地下帝国が増殖中だった。
後ろから頭の毛をつかまれた。
ニガー2は、怒鳴って、列をあけた。どういう判断の下でなのか、僕をそこに割り込ませた。
身構える間もなく、土砂が迫ってきた。大慌てで、それを腹の下に掻き込むが、なかなか全部は処理できない。どんどん次が来る。目の前に土砂が溜まる。それを超えて前の奴の踵が突き出たかとおもうと、僕の顔面を蹴った。
僕は両手を振り回して懸命に土砂を掻く。後ろの奴が、僕の左足の腱を噛んだ。どこかに当たったらしい。僕は、前後から攻められる。
前の奴が、頭に来たらしい。奇声をあげた。僕の顔に、息がとまるほど臭い液状のものがぶちまけられた。目に沁みるし、酸っぱい味がする。パニックに陥りながら顔をぬぐうと、そいつの突き出した尻の分け目に、緩い便を滴らせてひくつきながらつぼんでいく肛門を確認した。大便を吹きかけられたのだ。
大便混じりの土砂を後ろに送ったせいか、僕の両足は引っかかれ噛みつかれた。
僕は自分の身の程をやっと自覚した。
僕は、奴隷だ。過酷な肉体労働を際限なく続ける、絶望的な奴隷だ。しかも、同じ奴隷にも虐げられる下の下の存在だ。いい気な思い上がり、勝手な期待、保護されて増長したプライド、それらが完膚なきまでに粉砕された下の下の存在なのだ。
40)

僕が目を覚ました所は、ベッドの上だ。いや、中だ。
焦点の合わない僕の眼が、なんとか認識した。
ベッドとは、壁に掘られた横穴だ。棺桶じみた狭くて細長い穴に、僕は詰め込まれている。消耗の果てにある僕にとっては、本当の棺桶となりかねない。足の裏は奥の壁に接していて、膝は天井に突っかかっている。奥のほうが高くなっているのは、汚水や汚物が溜まらないようにするためだろう。体は両側の粘土の壁に挟み込まれているので、身動きは不自由だ。
穴は長くて陰惨な伝統があるに違いない強烈な腐臭に満ちている。
痛みをこらえつつ顎を上げて、反り返ると、開口部の向こうに部屋が見える。
僕は仰向けのまま、腰をうねらせながらいざって、そちらへ向かった。バルサを枕にして泳いできた癖が出た。
彼らのかつてのアパートの、リビングルームとほぼ同じぐらいの広さだ。
僕が入っているのと同様の穴が十二個。半数がふさがっていて、泥だらけで痩せた顔がのぞいている。床に寝転がっている比較的清潔な者が一名いる。かなりの歳だ。横穴とは異なり、床には落ち葉と麦藁が敷いてある。皆が、僕の目覚めたのに気づいた。僕を見る目は嘲弄的だ。失神して運び込まれたのを思い出しているのだろう。
昨日僕は土砂運搬作業中に精根尽き果て、周りの奴隷達に、石もて砂利もてクソもて追われ、しかし、逃げられるわけはなく、列を離れるや否や、ふがいなくも気を失ったのだった。
僕は開口部から首を出せるまで這い、体を返してうつぶせになり、彼らがどう仕掛けてくるかを窺う。
床の上で、牢名主じみた年寄りが体を起こして胡坐を組み、特定の誰かを当てにしたとは思えない、のどやかな声をあげた。
部屋中に漂うかすかな殺気をたしなめたのだろうか。とても優しい声音だ。辛抱だよ、赦しだよ、などと言ってはいないか?
僕はその年寄りを感謝と尊敬の念をこめて見つめた。
年寄りもまた僕を見つめたが、薄ら笑いのような表情を浮かべた。どういう意味だ?
かすかな関わりでも、よさそうな気配があるならば、大切にしたいので、僕は早急な判断を控えた。
穴から這い出そうとして、そこが床より思いのほか高いの気づかず、肩から斜めに落ちた。
奴らは、取り囲んで、ケツを僕に向け、たったこれだけの滑稽を根拠に、クソをひり飛ばした。ああ、又だ。またクソまみれになった。
こんなことが彼らのありきたりの行為になっているのか。
ひり飛ばした者の中には、あの牢名主もいた。
僕は、何度目になるだろうか、深刻に、極めて深刻に、自らの判断力に疑いを抱いた。
年寄りの陣頭指揮の下、彼らは部屋を清掃し始めた。僕も参加した。何をすべきかを他者に学ばなければならない僕は、もたつかざるを得ない。
わざとらしい乱暴さを足音に込めて、二名のニガーが、部屋の入り口に現れた。
たちまち、僕はどじでのろまだとみなされ、ニガーに殴られた。
穴の中の汚物を掻き出す。床の上のそれを、藁や落ち葉と一緒にして、戸口の外へ出す。土砂の場合と同じように、バケツなしのバケツリレーで、ゴミを運ぶ。外で継続中の土砂運びに、それらを混ぜる。その後、皆がトンネルの出口に向かって廊下に並ぶ。
ニガーが列の両端に立つ。僕は最後尾についているので、ニガーの息が後頭部にかかる。
昨日のとは別のやつらかどうか、僕にはわからない。ニガー3,4と振るべきか? 
ニガーの個別認識を僕はまだできない。
一斉に動き、なにかというと暴力をはたらき、切れやすく、無反省で野蛮な動物達としか把握できない。
そもそもニガーに個別があるのか。ニガーが個を持っているのか。どうだろう。この、ニガーが知れば無礼千万だと激昂しかねない疑惑は、今に延々と続く彼らによって与えられた暴力が源となっている。もしかして僕の八つ当たりの妄念かと思う刹那は、わずか1秒にすぎない程、僕の恨みは大きい。
急に僕は腹痛に襲われた。昨日の乱暴な飲み食いのせいだろう。強烈な便意に、いても立ってもいられなくなった。
ニガーが命じた、1,2、3、に相当するらしい点呼が、前から近づいてきた。
僕は言葉に詰まったが、下半身は、痛みと緊張のあまりに、詰まるのとは逆の反応をした。我慢できなかった。雷鳴がとどろき、僕の両足の内側は、クソまみれになった。又だ。
怒鳴りまくるニガーと歓声をあげる部屋の者達とに追いかけまわされ、足を開いたままおたおた逃げたが、たちまち組み敷かれ、屈辱のリンチを加えられた。
ここが地獄だ。

41)

前の者との間隔が開くたびにニガーに尻や背中を小突かれながら僕は進んだ。再び土砂運搬をさせられるのだろうが、その過酷な労働を前に、今さっき受けた暴行とおぞましい性的虐待の結果、既によろめいている。
洞窟を出ると、薄暗闇の広場が我々を迎えた。
夜明けなのか、夕方なのか。
西の空を見上げると、尼層の眉のような月が、濃いの薄いの入り混じって四重に見えた。物心ついて以来パソコンのモニターを見続けたせいで、もともと弱い視力が、ここのところ何度となく目を殴られて、さらに劣化したからだ。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦