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ネヴァーランド

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僕と並んで走り始めた。前を見たままだ。障害物がひっきりなしに出てくるから目をそらせられないのだ。
伴走者の口は、激しい呼吸にもかかわらず、絶え間なく動いている。声も大きい。
何と言っているのだろう。同じことを繰り返している。
なぜ、と言っているのか? だれ、と言っているのか?
わからない。わからないが、僕は、そいつに大声で話しかけた。
僕を覚えていないか。タダヨシだよ。体育館で会っただろう。蛇の写真を見せただろう? 
全く反応がない。唇は同じことを繰り返すだけだ。あらためてがっかりするが、僕は止めない。
君達には先生がいたよね。僕は、その先生の息子だよ。
僕の発言は独り言と化しつつあった。
僕は、君らの仲間だ。いや、まだ仲間になっていないかもしれないが、本当の仲間になりに来たんだよ。
こう言いながら、僕の胸中にある、黒いわだかまりを意識してしまう。
僕は、彼らの野蛮、粗暴、無神経、矮小、無知蒙昧、衆愚を、軽蔑していたはずだ。それなのに、いや、それだからこそ、仲間になりたい、と言い寄るのは、悪臭紛々たる行為だろう。外の世界への移動のきっかけを作ってしまったという罪悪感を補償するために、仲間になりたい、と言い寄るのは、仲間という現実にも概念にも失礼千万だろう……
伴走者は、あれほど払ってきた注意にもかかわらず、何かにけつまずいて転倒した。
ぼくはつぶやく。
ああ、だいじょうぶか? 僕は、先を急ぐ。友よ、また会おう。
天井に子供たちがよじ登って、息を呑んで僕を見下ろしていた。母親らしき声が遠くから聞こえた。そちらを見ると、太りきった女が、今度は僕に向かって、声をかけてきた。
視野の隅に、子供の下半身が映った。前を見る。ずり落ちかけているやつがいる。小児体形の下半身がぶら下がっている。そのすぐ下を通るとき、小便のにおいがした。僕の後ろでその子が落ちた音がした。スポンジの床なので泣きもしない。
吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。
百基を過ぎた。
左右に見物する者が連なるようになった。僕は檻の中の珍獣なのか。
何本もの手や足が出る。
口々に何か言っているが、以前と同様で、さっぱりわからない。叫び声も聴こえるが、歓声か怒声かの区別さえつかない。彼らの背後には、跳んだりはねたり走ったりする者達がいる。
乳酸が溜まり過ぎたのか、酸欠のせいか、ここに至って僕は、疲労を飛び越し、眠気に襲われた。
後ろへ跳び去る白いトリイが夢の通い路の標識のようだ。ふと膝をつきそうになり、その突然のぐらつきで全身が緊張し、気を取り直す。
眠気はどうやら吸う空気が原因であるらしい。確かに、なにやら甘美な香りが漂っている。食虫植物の花の香りか、神の社で焚く護摩か。
ふと、なぜ、走ってきたのだろう、という疑問を抱いた。
最終段階であることがわかっている隔離されたコースを辿るのに、走る必要があったのか。
怖気がついたと思いたくないので、このまま走ることにした。止まると眠りこける可能性もなくはなかった。
出口が近づいてきた。そこは、密林が果てるところでもあった。
トリイの向こうには、ぎらぎら輝く日光を背に、たくさんの真っ黒な影となった頭や肩が、いつでも来いとばかりに、ひしめき合っていた。
出口はずんずん近づいてきた。
眠気など吹き飛んだ。猛烈に興奮してきた。
どういう対処を彼らはするのだろう。
僕は歓迎されるほうに賭けた。
あと五基であることを見定めると、目をつぶって駆け抜ける。心臓は連打し、耳鳴りはうるさいほどだ。
瞼の裏が急に赤くなったので、最後の二百二十三基を過ぎたのがわかった。
つまずいて倒れた。足払いだったかもしれない。激痛が走った。土砂を、折れた歯と一緒に飲みこんでしまった。手足が捻じ曲げられた。身動きが取れない。
何が我が身に起きたのか見当がつかない。
恐るおそる目を開くと、僕は群集の真っ只中で、屈強の男たちに組み敷かれていた。

37)

勝手な幻想に酔って、歓迎されるほうに賭けた、なんともおめでたい野郎はどこのどいつだ?
嬌声と怒声を浴びせられながら、僕は左の頬を地面に押し付けられたまま、激しく切れたらしい唇をいっぱいに開いて、血まみれの土砂を吐いた。
二度、三度。
目の前に、盛り上がった赤い溜まりができた。それを見ていると、耳の横が疼き、甘い唾液が、短い周期で間歇的に口中に発射された。酸っぱい胃液も湧き上がってきた。両者が口の中に混ざって充満し、嘔吐の追い討ちをかけた。
僕の惨めさを告白しているような吐しゃ物の山は、崩れはしても、一方向に流れない。土地が水平であるからだ。
僕が押さえつけられている場所は、乾いた赤土からなる広場であるらしい。焦げた臭いをたてる土ぼこりがそれを不安定に覆う。
群衆は、絶えず揺れ、前後が入れ替わる。落ち着かずに地面を踏み鳴らす何本もの足の隙間から僕は垣間見た。
土漠のような平面が続いていた。
まともな草は見える限りでは生えていない。擦り切れた茎と、乾いた静脈のような根が残骸としてわずかに残っているだけだ。たくさんの者達がここを始終行き来しているということだ。
舌の先で前歯を探ってみると、折れたのは二本であるのが確かめられた。
歯茎に絡まる肉と一緒に、ほぼ根こそぎに折れたのが一本。そこからは血のシャワーが舌に注ぐ。
隣の歯は、根元から半ばにかけて斜めに折れており、ぎざぎざの断面に触るとアッパーカットを食らったように疼痛が頭頂まで走った。
視野の下に見える自分の鼻が大きく腫れている。普段は見えない頬も、膨れあがったせいで鼻の左右に見える。
僕の顔は二目と見られないほどに醜くなっているはずだ。
体は蹴られ続けている。ほとんどが跳び蹴りだ。僕は、そのいちいちに、律儀に正直にうめき声で応じざるを得ない。
僕は、脊椎の骨折や内臓破裂の恐怖におののいていた。
このままなぶり殺しになる可能性があった。
容赦ない、わけのわからない、満場一致の暴力。
暴力だと訴えてもしかたがない。僕と彼らのほかには、密林とそこに潜む動物達しかいない。訴える相手などいない。たとえ彼らと言葉を伝えあうことができたとしても、暴力だと抗議して、返ってくるのは、なに、それ、の大合唱だろう。
暴力だと断定することがそもそも無意味だ。言葉による断定が何ら意味をなさない言語以前の世界に僕はいるのだから。
かつて過ごしていた言葉と記号の世界を、この外の世界での体験によって相対化したなどという甘い状況ではない。
外の世界が絶対的な実体であって、言語以降の世界は、はなはだ疑わしい虚構であるらしいと思ってしまう。ショック死しかねない今のこの苦痛がその証拠となりそうだ。
こういう認識は、父が外の世界を評して、多彩な現象はあっても全体として空虚だ。茫々たる虚無が広がっている、と語ったのと、真っ向から対立する……
僕は右腕を引っ張られ、右わき腹を続けざまに蹴られ、危機の現在に立ちかえらせられた。
必死の抵抗も空しく、むりやり仰向けにされた。
太陽は、バルサを枕に、湖面に寝そべって仰ぎ見た際の、まぶしい充実とは異なり、侮蔑と嘲笑の大目玉として僕を睥睨していた。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦