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ネヴァーランド

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腕を組むと、左足に体重を移し、今やっと気がついたとでもいうように、小首をかしげて僕を見つめた。
ちぇっ。いやな奴。はじめから、僕のことを意識していたのだ。あいつ、斥候か番兵ではないか?
僕は水辺に近づきながら、傲慢そうに僕を文字通り見下ろしているそいつを観察した。
表情には何も窺えない。微動だにしない。
僕は、見納めになるかもしれないアメリカを盗み見た。
湖面から立ち昇る水蒸気のせいで、蜃気楼と化した白亜の城砦は、さらに大きくなって、空中に浮かんでいた。
あの城も、僕のいた施設と同じように、たくさんの部屋や体育設備や集合住宅やらを包含した多重構造を持つのだろうか。
城は巨大な鏡餅のような高層建築で、各階に丸い窓が並んで見える。屋上には真っ黒な監視塔が聳えている。
岬の鼻が、その姿を完全に遮ってしまうまで、アメリカ城を、彫像のような仲間と交互に見続けた。
水辺に着いた僕は、愛着を断ち切れないバルサを砂浜の端まで運んだ。
再び使うかもしれない。
増水の圧力と浮力が楔を食い込ませるように工夫して、岩の間に手早く押し込む。
一仕事終えて林のほうに一歩踏み出した瞬間、テキはしびれを切らしたというふうに、後ろを向いて走り出した。
再会の喜びの交歓や、長旅に対するねぎらいなどは、それはまあ、ないだろう。
俺について来い、という意思表示だけでもありがたいと思わねば。
で、ついていこうとした。
ところが、長い間魚や水鳥のまねをしてきたので、脚が走りかたを忘れていた。
つれないあいつは、もう葉叢の奥だ。
石に躓き、粘土にすべり、蔦に足をとられながら追いかける。
最初からこんなでは先が思いやられるとぶつくさ愚痴りながらも、僕はうれしくて仕方がなかった。

36)

バルサが水面を分けて、左右にさざ波を立てながら進んだように、先行する奴も分けながら走る。
左右に熊笹や灌木のこまかな震動が伝わっていく。その下を小動物達が足音や鳴き声を立てて散っていくのだ。スイカズラの花と実を、翼で叩き落として飛び立つものもいる。
ヤツの、背と尻はたくましく、足取りは軽快だ。
一瞬の躊躇もなく、右に左に木の幹を避け、枝や蔦をかいくぐり、倒木を跳び越える。
きらめくような、実体化した野生だ。
体育館で訓練しただけの者とはわけが違うが、こちらとしては、訓練の体験を精一杯生かすしかない。
吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。
どれだけこのブートキャンプ式荒行が続くかわからない。長距離走の基本を崩さないように努めよう。
父の声が聞こえる、「思い切り吐きなさい、吸うのはそれについてくる」
突然、前を行く仲間が、左水平方向に走りはじめた。
鳥が巣に戻るとき、直接降りると巣の場所が捕獲者に知れてしまうので、離れたところに降りてから、地面を走るなり、枝から枝へ飛び移るなりする場合がある。
ヤツも本能的にそうしているのか? だとしたら、仲間達の住処は近い。
ヤツの姿が消えた。
穴に落ちたか、木の陰に隠れたか。
僕は慌てて、姿の消えたあたりにたどり着き、ソテツ林の間に建つそれを見て、仰天してしまう。
奇怪な建造物が目の前に立ちはだかっていた。
僕は、暗くて遠い記憶を喚起するような白木作りのゲートを、恐れとおののきいっぱいで、見上げる。
円の四分の三ほどの弧を描いて、円柱が地面に突き刺さっている。地中で両端がつながって、円をなしているのかもしれない。
草むらから蔦が延び、柱に絡んで、もうすぐ天辺でつながりそうだ。
よく見ると柱には細かいひびが入っている。雨水の浸食によって、黒ずんだ紫に変色している。
柱を押してみる。
極めて頑丈だが、蔦は揺れ、アヤカの足先のような葉も揺れて、そこを這っていた陸貝が、触角と腹足を縮めて落下した。
ゲートは一つではない。そのすぐ向こう側に、同型のゲートが隣接している。
そのまた向こうに同じものが。そのまた向こうに……。
円形ゲートが蛇行しながら延々と連なっている。
各ゲートの頂上同士は、やはり白木の棟木でつながれている。
いったいどうやって造ったのだろう。
太い蔦かよく撓む木を大木に巻きつけて湾曲させる。曲がついたらはずして、日光と風雨に晒し、樹皮を剥ぐ。
できないことではないが、あの、高層アパートで、飽食と怠惰の中に沈淪していた者達が、こんな技術を編み出せたのだろうか。
環境の激変は、精神を覚醒させ、技術革新をもたらしたのか。
さらに、大工事を指揮した権力を想定することができる。
誰もかれも一様に猥雑なので、個別認識が難しかった彼らの間に、序階ができ、支配被支配の関係が生まれたのか。
足元に何かが落ちてきた。茶褐色の棒錘形がくねくねいやらしくのたうっている。
蛭だ。
立ち止まっている僕の体温を察知して、急降下爆撃を始めたのだ。
振り仰ぐと、次々に落ちてくる。ゲートに落ちたものの、いそいそと僕の頭上に向かって這って来るのもいる。
背中に落ちてきたやつをゲートに押し付けてつぶす。音を立てたかのようなつぶれかたをした。
僕は走り始めた。
吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。
次々にゲートをくぐる。いつの間にか、その数を数えていた。
単純繰り返しの現象に会うと、数える癖が僕にはある。心拍数を数える強迫から脱するためにどれだけ努力をしたことか。眠る前に数え始めて、目覚めたときにまだ数えていたことがあった。その数は、……忘れた。
ゲートの単位は何だ? 一基、二基? まさか、一門、二門ではないだろう。
ゲートの意味を考える。
似たものをようやく思いついたのは、既に三十基を過ぎた時だった。
これはトリイではないか?
今僕は、神の社へと誘う階段を登っているのではないか?
今走っているところは、分厚い褐色の腐葉土だ。僕の部屋のベッドのようにクッションが効いている。一足ごとに甘酸っぱい匂いが立ち上がる。
だが、木の葉のフィルターを通して柔らかになった日光が、トリイをほぼ真上から照らし、腐葉土の上に、光と影の縞模様を作っている。ちょうど階段のように。
父の授業で、連なるトリイの写真を見せられたように思う。それらは鮮やかな朱色だったが。
もしトリイだとすると、彼らは宗教さえも発見したことになる。
何の観念も持たず、即物的に、欲望のままに生きていた彼らが、宗教感情に目覚めたとは。
僕は何か重大な間違いを犯しているようだ。
トリイの外で吐瀉のような叫び声が上がった。
僕の仲間が立っていた。
両手に熟れた黄色い果実を支え持ち、開いた口の周りも、黄色く汚している。今叫んだ際に、実際に果肉を吐き出してしまったらしく、かけらを探している。
探すのは馬鹿げていると気づいたのか、新たに果実に噛み付いた。その時に、僕をにらんだ。にらんだままずっと僕を追っている。彼と僕の間を、四十八本目の柱が一瞬さえぎる。首をねじる限界まで達したのか、体の位置を変えるまでにはいかず、果実に専念することにしたようだ。
円柱を両手でつかみ、ひくつく鼻と小刻みに動く唇を突き出している者がいる。
通り過ぎるとき、横目で見ると、おののいて跳び退った。
熊笹を蹴飛ばしながら、走り寄ってくる者がいる。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦