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ネヴァーランド

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しかし、よく見るとペンキではなかった。首の切り口を扉に押し当てて書かれていた。
半次郎は慌てふためいて石段を駆け下りていく。途中でもんどりうって一回転した。めげずに立ち直って、更に駆けた。
目指すところは本殿でも駐在所でもなく、ばばさまのいる島田邸だ。

彼は傍らの神木から垂れ下がっているものに気づかない。
八の字に結わえたベルトが、首吊り死体を支えている。
風が吹いても、傾げた頭の前髪がなびくだけで、微動だにしない。

2)

「おはよう、タダヨシ。目が覚めたかい?」
音楽とともに父の声が響く。
眠りに落ちたときと変わらない僕の部屋に朝が来た。
僕が目覚めるときが朝だ。
毎朝異なる音楽が僕を覚醒させる。
僕は絶対音感の持ち主だそうだ。
そのせいかどうかはわからないが、僕の頭の中では眠っているときでさえ音楽が鳴り響いている。
音の組み合わせが無限にあるように、朝はこれからも無限に繰り返されるだろう。
天井を見上げる。
いつもとおなじく、青色に塗られた背景と、白いまだらもようとが見える。
空を模して描いてある。
大気中のチリによって短波長の青がレイリー散乱するから青い。水滴や氷の粒がミー散乱するから白い。
だが、僕は実際の空を見たことがない。
ベッドから抜け出すと、トイレを済ませ、シャワーを浴び、朝食をとる。
好き嫌いがないから、ほとんど毎日同じ食材でかまわないが、成長盛りなのでやたらとお腹がすいてつい食べ過ぎてしまう。
「数学は、微分の続き。地球の歴史は白亜紀に入る。天文は惑星の公転運動に関する面積速度一定の法則についてだ。ああ、それから、アメリカのドギーからレターが届いている。パソコンに入れておいたよ」
父の声を聞きながら食事を続ける。
ドギーは、平和という名の池の向こう岸に住んでいる。
そこがアメリカという施設だ。
名門の御曹司で、代々ドギーと名乗っている。
何代目かは僕もドギー自身もよく知らない。
腹ごなしに、ランニングマシーンに乗る。
ウォーキングにとどめておく。
モニターの前に陣取ってキーボードをたたく。
まずは親友のレターを読む。

?親愛なるタダヨシ、
君の手紙を読むのはいつも楽しい。僕の孤独を癒してくれるのはダディを除いては君しかいない。ダディと君の父親が親友で本当によかった。 さもなければ僕は孤独地獄に耐えられず、とっくの昔に自殺していたことだろう。おや、この文言は、君のこのあいだのレターとそっくり同じだね!
ダディを除いては、と今書いたけれど、彼は、僕と世代や知識量や経験量だけでなく、存在のレベルまでが違うようだから、如何に僕を理解し愛してくれていてもそれには限界があると近頃僕は思い始めた。
僕たちのような障害を抱えた子供は、お互い同士で励ましあいながらこのハンディを何とかプラスに転化していくしか仕方がない。この共同作業の過程でのみ孤独は癒されていくのだろう。
思春期、親離れの年齢、反抗期。そういう段階に僕は、おそらく君も、入りかけているのではないか? そんな僕たちが障害の軋轢の下で出来ることは何だろうか?
それから、つまらないことかもしれないが、近頃気になってならない疑問があるんだ。パソコンのwindowsという言葉のことだ。windはいつでも吹いている。ただそれにows がついてなぜパソコン用語になるのか。僕たちの持っている電子辞書にはその理由が書いてないね。
ダディは、win・dowsあるいはdhowsじゃないかと言っている。でもやっぱりわけはわからないね。ダディはとぼけている疑いがあるよ。
お互い、食べ過ぎに気をつけよう。ときどき写真を送って僕に体形を批評させてくれ。
君の永遠の友、ドギーより?

僕は、孤独の克服法や父親との関係の見直しという、普段僕が発想しない大問題に面食らったので、今は返事を出さないことにした。
僕は孤独感を一度も感じたことがないが、ドギーはそれに苛まれているらしいので同病相哀れむような内容のレターをでっち上げて以前出しておいたのだ。
友情を大切にしているからこそそうしたのだが、少々気がとがめる。
すぐに今日の学習にとりかかる。
モニターに課題が映し出される。
時々お菓子をつまみながら、三科目の今日のノルマを達成する。
「オーケー、タダヨシ。完璧だ。お前は天才だよ」
父は毎回そう言ってくれる。
パソコンを切ると、床の上をごろごろ寝転がってから背伸びをする。
部屋の出入り口のシャッターが上がっていく。
体育の時間だ。
トンネルのような渡り廊下に跳び出す。
第二のシャッターが上がる。そこは広々とした体育館だ。
やはり天井から響いてくる父の声に従って、大忙しに動き回る。
走るだけではなく、梯子やポールの上り下り、平均台、障害物走、高跳び、幅跳び、はてはサッカーまでこなし、隣接のプールで泳ぎ、潜る。
体育館にいるのはいつも僕だけだ。
ほぼ同世代の少年少女たちもここを利用しているらしいのは、たくさんの僕のと同じぐらいの大きさの足跡や、隅のほうに落ちている艶のある毛から推察できるが、直接彼らと会ったことはない。さらに、年少の者の、お漏らしの跡もたまにみる。
父が、僕の特殊性を理由にして会わせないのだ。
きっといじめられると言うので、それは僕が障害児だからなの、と訊いてみたことがあった。
確かに僕はドギーと同じく先天性咽頭小骨畸形で、父のようにきちんと発声が出来ず、キーボードでしか意志の疎通を正確には出来ないが、仲間と仲良くできる自信はあった。
父は、そうではなく、お前が利口過ぎるので、嫉妬や恨みをかうのがわかっているからだ、と答えた。
僕は利口になりたくないし利口でいたくないと抗議した。
父は笑って、しょうがないよ、それはタダヨシの運命だ、と慰めにならない慰め方をした。
いったい何のことを言っていたのだろう。
今、僕は反抗期突入宣言をしたドギーを思う。

3)

僕の母は、僕を産んだときに死んでしまったそうだ。
父の執刀により帝王切開が施された。
僕は助かったが母はダメだった。
かすかに父の手に赤ん坊の僕が抱かれてゆらゆら揺すられた時の浮遊感を憶えている。
しかし、それ以後父に直接会ったことはない。
父にも重大な障害があるらしく、息子にさえ、どうしてもそれを知られたくないらしい。
僕の障害に匹敵するような障害なのだろう。
お互いに哀れだ。
父が僕に接触せざるを得ない場合は、僕が熟睡しているときに限る。
たとえば、身体防衛用の発信装置のついた腕輪を僕の左腕にはめておいてくれたときのように。
その間、麻酔をかけられている疑いがある。父の名誉を重んじて、それについては問わない。
僕は、小さいころ乱暴者に襲われかけたことがあったらしく、父はそれを心配して自らその装置を開発してくれた。
ニンテンドー仕様だ。
僕の仲間に乱暴者がいるということだ。
父が指導者であるこの日本という施設には、僕ら父子以外には僕の会ったことのない仲間達しかいない。
だから、乱暴者は、仲間の誰かしかありえない。
アメリカという施設の指導者がドギーの父親で、その他にいくつかの施設が存在しているそうだ。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦