ネヴァーランド
僕は、生えたばかりの草原を滑り降りてきた。地面が柔らかかったのは、深いところがまだ固まっていなかったせいだ。豪雨がもたらした土砂の跡だったのだ。
浜辺にも浅瀬にも葉のついた若木が散乱している。
嵐の後を歩いていることを僕はよく認識していなかった。
立ち上がった。
湖に入って、仰向けに浮く。ゆっくりとドルフィンキック。
まぶしくてたまらない。昼下がりの太陽が容赦ない。
まるで、太陽が、たくさんあるみたいだ。
33)
僕はいくつもの岬をめぐり、同じ数だけの入り江を訪れた。水行何日になっただろう。アヤカの泳ぎが上達するはずだ。
わずかだが水位が下がってきた。
眠るところは、大型動物が入り込めないように、なるべく狭い入り江にした。
崖下を掘って寝床を作る。ある程度水辺から離れないと、水が沸きだす。
もっぱらアヤカがその作業をする。
僕がサボっているわけではない。
掘り起こされていく砂を、押して固めて、周囲に城壁を作っていく。内側にゆるやかに湾曲するように。半球形の籠となるように。アヤカがたゆたっていた卵の殻となるように。
僕達は砂穴にもぐりこむ。寝返りを打つたびに砂が音を立てる。
ある砂浜で、穴を掘ると、温水が湧き出した。かすかに腐敗臭がした。
無機物が、腐敗や発酵等の有機反応の効果を、自己紹介のために使う一例だ。
火山が近くにあることがわかる。
アヤカは気味悪がっているようだったが、僕は浸かりっぱなしだ。
手のひらや足の裏にしわがたくさんでき、右脚の傷跡が白くふやけた。
そこで昼と夜を過ごす。
去りがたかった。
ある入り江でバルサを見つけた。
白木の流木はたくさんあるが、体がかすっただけで回転するほど軽いものは珍しい。見逃しはしない。
緩やかなくの字型。僕の体長の三分の二、僕の太ももの二分の三の太さだ。
水に浮かべてつかまってみる。ほとんど沈まない。心強い。馬乗りになろうとしたがそれは無理だった。僕はひっくり返り、水を通して揺らめく雲を見た。
両腕を浴びせかけて、顎を乗せ、バタ足で進むのも悪くないが、後頭部を乗せ、仰向けになって、ドルフィンキックで進むほうが楽だ。
ずり落ちないように、両腕を耳の後ろに伸ばしてバルサをつかむ。
肩甲骨まで乗せて、脇で締める場合もある。胸まで水面に出る。安定が悪くなる。視野がゆれる。すがすがしいが、軽い酩酊状態におちいる。
夜、この状態で進んだ。
星をつくづく見ることは今までなかったように思う。
かつて夜空を窺った時、小さな星は、針穴にすぎなかった。大きな星でも、飛びとびに散らばる太い針の刺し跡だった。
いつのまにか、星たちは、多く大きくなっていた。小さな星を見つけるほうが難しい。大きかった星は、その表情が見分けられるくらいにふくれていた。
どれもこれもが、近々と迫ってきて、瞬きの音が聞こえそうだ。
流星を頻繁に見た。
蝉と同じで、長い間暗黒の空間に暮らした果てに、この星に近づき、大気圏で一瞬日の目を見て命を終える。
点滅しながらゆっくりと落下していく星もある。いや、星とは思えない不可解な何者かだ。
耳元の波音と、遠い彼方から降ってくる宇宙線の音が入り混じって、波が宇宙線か、宇宙線が波か、わからない。
湖底がどのあたりにあるかわからないように、宇宙の底はどのあたりかは、わからない。
しかし、波は両者の狭間に漂う僕に、はっきりと、送られてくる。うるさいくらいだ。
その狭間もあいまいになってきた。
僕は宙に漂っているのだ。
酩酊状態はさらに深まる。漂うという意識が強いる船酔いだ。
これはむしろチャンスだ。
重力の魔が一時的に姿を消しているのだから、今のうちに認識を深めておいたほうがいい……
ところが、夜が明けてきた。
湖面に積もった朝霧に、朝日が、たくさんの錐の先になって、平行に差し込む。
霧がうろたえてどんどん消えていく。
囀り声が沸きあがった。
それぞれ、集団が、合唱を始める。
岬の突端から飛翔動物が飛び立つと、それにつられて、岬の根元にまで至る範囲で、同類の群れが数珠繋ぎに飛び立った。個体数は優に二百を超えている。
僕は、朝日に照らされてまぶしいけれども、飛ぶ者たちを観察する。
翼手竜だろうか。
充分に羽毛が発達している。アヤカの仲間である可能性が高い。
アヤカに比べると、色が白く、尾が短く、首が長い。囀り声は甲高くて小刻みで、低く長く延びるアヤカのそれとは異なる。
アヤカは、親指と小指が退化している。この者達が近寄ってきたら、足の指を見てみよう。
僕達を見つけたようだ。いや、既に見つけていたから飛び立ったのか。
とにかく、鳴きながら、近づいてきた。
僕達を中心にして、円を描いて飛び回り始めた。
群れが形成するドームの外側で、太陽が、コロナを吹き出しながら高速で滑空しているように見えた。
二百対の長大な翼が空を切る音と、それらの筋肉と関節と羽毛の付け根がたてるにぎにぎという音が、われらが狂騒に感染させずにおくまいでか、とまでの迫力で、音響的に僕を追い詰めた。
さらに慌てさせられたことには、炎熱の昼間が始まろうとしているこの時に、空からベタ雪が降ってきた。湖面にも、僕やアヤカの体にも、見上げる僕の額にも、白い大きな雪の団子がぶつかってくる。
何たる異常気象かと思ったら、やつらの糞だった。
やつらは興奮のあまり、しきりに脱糞を繰り返しながら、ぐるぐる回る。どんどん回る。
最後は融けて白い生クリームになるのだろうか。
歓迎か、攻撃か。好奇心、偵察、情報収集、友好のエール、脅し、通告。さて。
僕は目が回ってしまう。進行する酩酊感。観察どころではなくなった。
アヤカは、久しぶりの家族再会といった具合で、はしゃぐ。あの母ちゃんとは姿かたちも態度もちがうのに。
アヤカは、調子に乗って飛ぼうとした。警戒心が薄い。困ったものだ。
両足が揃って、後ろに折れ曲がり、甲が水面に筋をつけるまではいいけれど、筋がいつまでたっても消えないまま、体が上がらず、ずり落ちてきて、ついには飛沫を上げながら水没する。
何度も試みたが同じことだった。
できなくて鳴いている。いや、泣いている、か。
僕のほうは、飛び立ったままの傾きを保ちながら、ぐんぐん上昇していくアヤカを想像してみるのだが。
34)
彼ら、あの巨大な空中軍艦たちが、そんなに長い時間、飛んでいられるはずはなかった。
果実の皮がむけるように、ドームは剥がれていく。つるつる剥けてそれは空に伸び、岬の根元から端に向かって、飛び立つときとは逆順に、針葉樹の狭間におさまっていった。その体重が、しばしの間、無数の枝をゆっくり上下動させ続けた。彼らも重いが、樹も剛い。
僕の周りには、皮が剥がれた後、おいしそうな果肉なぞは残らない。ただ朝日が光景を斜めに燦然と遮っているだけだ。
少数の者が岬に帰らず、着水して、惰性で進んだ。
その輪が段々縮んできた。
僕とアヤカの間をさえぎるようになる。ちょっと待てよ。
十羽か、あるいは十頭というべきか、とにかく個体数十体ほどがアヤカを取り囲んだ。
皆、アヤカより白く、アヤカより大きい。横に並んで見下ろす者もいるので、よく比較ができた。
朝日を半身に浴びて、まるで、銀白色に輝く浮き島だ。