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ネヴァーランド

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僕をめがけて突進してきた。ブレーキのかけ方が分からず、前に倒れ、くちばしを砂に突き刺してしまった。
僕はそれを見ながら、妙な反応を起こした。
腹筋が痙攣し始めた。肺も連動して短い周期の呼吸を繰り返す。そのたびに声が出る。
もうどうにも止まらない。
これはもしかして、笑い、ではないか?
父が笑うのは、何度も聞いたことがある。笑いとは何か、説明をしてもらったこともある。
だが、それを経験するのは初めてだ。
僕は笑ったことがなかった。
笑うということは、なんと楽しい経験だろう。
砂だらけのアヤカの顔を見ながら、僕は笑い続けた。

30)

僕とアヤカは、並んで砂浜に横たわり、だんだん光と青みを増していく水面を見つめている。
その下にある大質量の液体に惚れぼれする。
滝や大河は、ただの水漏れに過ぎなかった。
周囲の森林から、時々刺客が飛んできて、魚を咥えたりつかんだりすると、急上昇していく。
恐竜の吼える声が山彦になる。山彦に応えて、別の恐竜が吼える。いや、一頭が繰り返して吼えているのかもしれない。
体をこすっているのか、揺れている木がある。
足を踏み外し、崖から落ちたやつがいる。
僕は、新しく覚えた反応をそれに適用する。つまり、笑う。
いよいよ光景全体が明るみを増し、真昼の太陽が垂直に射し始めた。
かつて、僕が暮らしていた環境とは、何と異なることかと、いまさらながら思う。
僕はあそこで、物心ついて以来、温度、湿度、気圧、酸素濃度等の変化を感じたことがなかった。刻々変わる天候など、想像外だった。
正面の山すそにわだかまっていた霞が薄れていく。
はるか彼方に対岸が見えてきた。
密林と水に挟まれた水平線。
おや、何かが見える。
僕は目が痛くなるほどに凝視する。
白い霞が薄まっても、そこには白い何かが残った。
どれだけ待っただろうか。ついにその姿が露わになった。
対岸の水際に、白亜の城が、聳え立っていた。
ああ、もしかして。
死んでしまった親友ドギーは、平和という名の池の向こうに住んでいた。
そこにはアメリカという施設がある。
この湖は、父が語った平和という池なのだろうか。
こんなに大きな湖を池と称したのは、父のジョークだったのだろう。
父の感覚では、池だったのだ。
あの城こそがアメリカで、ドギーは僕のまねをしてそこから脱出し、殺されたのか?
城外のどこかに仇がうろついているのか?
こうやって寝そべってはいられない。
次の行動に移ろう。

31)

起き上がって、砂浜を歩き始めた。流木が散乱している。湖を漂ってきた白木のほかに、雨水によって山腹を押し流されて来た若い木もある。
砂浜を何本も細い流れが横切っている。それらを遡って山腹を見ると、小さな滝が、木立の間に点々と見える。下流に比べて、水の湧き出る場所がずっと多いようだ。
砂浜の面積は広くない。たちまち行き止まりだ。
絶壁が湖に雪崩落ちていた。崖の向こうに何があるのか気になった。
僕は再び水につかった。水底には、石や岩以外に、木の枝も沈んでいた。まだ葉がついているものもあった。それらを飛びとびに伝われば、泳がずに岸辺と並行していける。
アヤカは、前方の水面を滑っていく。陸では先行することなどありえないのに。
崖を巡って入り江に入る。わずかばかりの砂浜がある。その向こうに再び崖がある。ついさっき後にしたばかりの光景が再現された。時間が後ろに跳んだ感じがした。
これの繰り返しになるらしい。
何十回何百回と繰り返したらアメリカに着くだろう。
やや、うんざりだ。それに、僕の優先順位の第一は何であったか。
仲間達のところへ行くことだ。そこで暮らし、何らかの働きをすることだ。
このまま進めば仲間達からは遠ざかる可能性があった。
なぜなら、彼らに水は必要であるものの、子供や老人を連れながら、水につかったまま長期間旅をしたとは思えないからだ。
もっと高い位置にある森林の中を進んだはずだ。
いや、もう進む必要はなくなっていたかもしれない。
山腹には清水が流れ、泉もある。大量に必要になった時や天候異常で湧き水が止まった場合だけ、湖に下りてきて、調達すればよい。湖は逃げない。安心だ。
一方、大森林は豊富な食料庫だ。
彼らは既に山腹のどこかに居住地を設置しているだろう。
僕は上のほうへ偵察に行きたくなった。
砂浜が、草の生えた斜面に変わるところで、振り向いた。
アヤカに、ここで待っていろと、どうやって伝えたらよいのか。
足の指と指の間の膜は、すでに広く厚く発達している。指先の爪をたてれば、でこぼこ面や斜面での歩行も不可能ではないが、あくまで膜は泳ぐためにある。歩行の際には、足を浮かせてしまう原因となる。
さらに、今や体全体に脂肪がまわり、歩行自体がおっくうそうだ。尻を振りふり、よたよた歩く姿には同情を禁じえない。
僕が斜面を登り始める振りをしただけで、走り寄って来る。
頭をつけて押し返すが、いうことをきかない。
あきらめた。ダイエットのために、トレッキングもよいだろう。
斜面を登る。しばらくすると僕は樹木の陰に覆われる。
ところが、大河に沿って、森林をなしていた樹木と、ここの樹木は、趣を異にした。
蛇が立ったように、背の高い無個性な幹が、垂直に伸びている。
木と木の間が離れているので、蔦かずらで上空がふさがることはないが、空はほとんど見えない。水平に長々と伸びる枝が重なりあい、細長い葉がそのまた何倍にも重なって、太陽を隠してしまっていた。
それらの葉は、地面に堆積して、腐食しかけているものの、まだ硬さが残っていて、踏むと折れて音を立てることがある。
あるところでは羊歯が密生していた。また、あるところでは匍匐茎が地表からはみ出して笹をつけていた。その下で走り回る者達がいる。笹の葉が次々に痙攣する。
ここでは僕の仲間達は暮らせない。針葉樹林帯では生きていけない。
滝の高さ分登っただけで、植物相が変わっていた。
僕は、息たえだえのアヤカの脇をすり抜けると、来た道を逆行して水辺に下りた。
彼らはどこへ行ったのだろう。

32)

彼らがここまでは来なかった可能性も考えてみる。
ハンディのある者達を抱えて、登坂は無理だという判断もありえたはずだ。
滝つぼ周辺を思い出す。
左右の段丘が収束した地点だった。どん詰まりの狭い場所だ。
逃げ場はない。食べ物もない。大集団が暮らせるはずはない……

僕は砂浜に坐って湖面を眺めている。
刀が垂直を保ちながら皮膚を切り裂いていくように、淡水鮫の背びれが行き過ぎる。
水面にくさび模様が裾広がりに広がっていく。
父が語ってくれた、あるおとぎ話が、内耳に聞こえてきた。
?主の、鼻息によって、大水は、積み重なり、壁のように、立ち上がり、海の、ただなかで、凝り固まった?
「まんざら、おとぎ話ともいえないぞ。紅海が引き潮の時には、渡れなくもなかった」と、父の注釈がついた。
僕は嵐を思い返す。
あの時は、湖から水があふれ出ただろう。
今もまだ水かさが増えたままだろう。
僕の仲間達は、水量がずっと少なかった時に、葦の生えた水辺の際を歩いていったのだ。
彼らは単純にそれまでどおりのやり方で進んだに過ぎなかった。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦