ネヴァーランド
僕は支流に沿って進みながら、時々振り向く。アヤカが浅瀬に入り込んで脚をたたんだりしないように警戒しているのだ。
川岸は黒っぽい泥と細かい灰色の砂で出来ている。
水で濾された砂金が張りついて、ゆらめく層状の模様を作っている。
僕らの気配を察した蟹たちが、それを爪で乱しながら、川へ逃げる。
僕は、出来ることなら河岸段丘に近づきたくはない。
二頭の恐竜が、くんずほぐれつ争いながら、斜面を転げ落ちるところを、二、三日前に遠くから見たからだ。交尾行動だったのかもしれない。
それらがうろついていてはかなわない。
ヘビに追いかけられて、枝から飛び降りたのも段丘だった。
岩陰から岩陰へ、身を隠しながら、いやいや斜面に近づく。
支流は、案の定、暗い穴へ続いていた。
その穴をまたいで向こう岸に渡ればよい。
斜面のふもとには、照葉樹が幾本も並んで立っていた。おいしそうな白い実がたわわについて、どの枝もその重みで湾曲していた。
実は、草むらに点々と落ちており、あるものはみずみずしく輝き、あるものは茶色に腐りかけている。
更に、一本の木の根かたに、紫色のスミレが、群をなして咲き乱れ、僕の眠気を誘うベッドに見えた。
そこいらに風が立ったようだ。
スミレの花びらが舞い上がった。
それらは宙に舞ったまま落ちてこない。
たくさんの紫色の蝶が、僕が近寄ったので逃げたのだった。
蝶が去った後は、緑の草が生えていない。
灰色と茶褐色のなめし皮がしわくちゃなままに放置されており、幾本もの白い突起がカーブを描いて突き出ていた。
死体だ。仲間の死体だ。
ここで精根尽き果てたのか。
仲間達は、これだけの白い実があるから、すぐに死ぬことはないだろうと思って、歩けなくなった者を置き去りにしたのか。
僕は、アパートでの宴会の最中、床にへたり込んで、何かぼやいていた年寄りを思い出した。
歩けなくなったのは彼だったのか。
僕は近づかない。アヤカに見せたくない。
足を速めた。実は食べない。
大回りして斜面を突っ切り、向こう岸に渡ると、大河の岸辺に戻った。
その後も、支流は現れた。
伏流になる口まで遡る以外にも、方法はあった。
ごく細い川は、徒渉した。
岩から岩へ飛び移ったり、倒木を伝ったりもした。
こうして僕達はたくさんの川を渡った。
26)
見えない指揮者がタクトを一振りして、ざん、と交響曲が始まるように、夕方にスコールが襲ってきて、僕の周りの一切を打ち鳴らす。
雨は好ましい。
川のように、流される危険なしに、熱を帯びた体を冷やすことができ、体の汚れやたかっている虫を洗い落とせる。
全面タイル張りのシャワールームを思いだす。
Aボタンを押せば上から、Bボタンを押せば四方から、温水が噴出したものだった。
バーの右を押せば高温に、左を押せば低温になった。
出口で温風による乾燥。
シャワールームだけでなく、僕の部屋全体がいつも低い機械音を立てていた。
パソコン、空調機、トレッドミル、食料庫等が、その音源だった。
それらは、外の世界にはありえないものだった。それらを容れる部屋も、外の世界にはありえない材質でできた幾何学的な空間だった。
僕は加工された完全食品を食べて育った。
完璧にコントロールされた教育を受けた。
もしかして、僕自身もありえない存在だったのかもしれない。
外の世界が当たり前であって、僕はマシーンだったのかもしれない。
僕は頭を振る。雨水が散る。
外の世界に同化してきたので、かつての自分に違和感を持ち始めたようだ。
こういう懐疑は、行動を鈍化させる恐れがある。努めて抑制しよう。
雨は降り続いた。
川下から強い風が吹いてきた。
今までとは違う雰囲気が漂う。
僕は、ベッド位の葉を広げたタロの下で、雨宿りをする。
アヤカは雨の中に立ったままだ。
タロの茎を伝ってアブラムシやアリが降りてくる。足元の腐植土からも、アリ達が湧いてくる。
列を作らない。移動する向きが皆同じだ。
僕は不安に駆られる。
腐植土の間から水が染み出してきた。
川音が大きくなる。風の音も大きくなる。
タロの茎が大きく二三度揺れて、音を立てて折れた。裂け目から白い液汁が垂れた。
密林を透かして川の流れが見えた。
急な増水のせいで、水が茶色く濁り、流速が倍加している。
僕は慌てて土手に向かって走る。アヤカも啼きながらついてくる。
濁流が迫る。
木の根が水に飲み込まれていく。
僕も水に足をとられる。
魚類が背びれをばたつかせて、木の間をぐねぐね縫いながら逃げてきた。
跳んで前のものを追い越す。横倒しになって鱗をきらめかせる。首をきしませて音を立てる。生臭い匂いがする。
僕は土手にたどりつく。よじ登る。
振り返ると、豪雨の中、大河は土手下まで迫り、木や草をなぎ倒しながら走っていた。
仲間の死体は白い実と一緒に流されてしまっただろう。
上流からは、大量の木や草以外にも、流れてくるものがある。
灰色の柱が二本、水面に現れた。その下に、黒い皮膚と大きな目玉が見える。目玉がこっちを見ている。
恐竜が流されていた。
体がゆっくりと回る。脚が突き出た。その姿勢のまま僕の目の前を過ぎていく。
僕は自分が震えているのが分かった。
土手に立っているアヤカの腹の下にもぐりこんだ。
背中が温まる。
アヤカの母ちゃんは両脚でアヤカを挟んで腹の下に抱えたっけ。
あの母ちゃんはどうなっただろう。
27)
嵐の後の前進は困難を極めた。
森は漂着物であふれていた。それらが作るバリヤーが何重にも行く手を覆っていた。
泥まみれになった木の枝から枝へ、動物の死体が、四肢をいっぱいに広げて懸かっている。
日光を背後から浴びて、華やかに舞っていた舞踏家が、突然静止したかのようだ。
魚類や両生類の卵も、ひも状に連なって引っ掛かっている。
当然地面には死体があちこちに転がっている。
食べられるものは大急ぎで食べた。
急速に腐敗が進行していくからだ。
普段でさえ臭うのに、目に沁みるほどの悪臭だった。
しかし、まず、アリが戻ってきた。昆虫と小動物が続いた。鳥類が木に止まるようになった。やがて、大型動物の足音や鳴き声が聴こえてきた。
地面や木の枝から芽が出、花が咲き、あたりに花粉が漂う。
たちまちの様変わり。
さらに大きな変化が訪れた。
悪臭が薄まり、そよ風がふく。木が疎らになってきたのだ。
たけの高い草が増えた。熱帯雨林からサヴァンナへ足を踏み入れたのかとも思った。
腐植土が減り、石や岩が増えた。
常に左右の山稜が見晴るかせるようになった。
上流に向かって左手、大河の向こうの山稜と、右手、河岸段丘あるいは土手の向こう側に高まっていく山稜だ。
山腹は、太陽を背にすると真っ黒だが、太陽を正面にするとオレンジ色に輝く。昼の光の下では、青紫にぼやけて、遠くに後退して見える。
だから、朝は左の山々が黒く連なり、右の山々がオレンジ色に輝く。夕方は、その反対で、昼はどちらも同じ色にかすんでいる。
その左右の山々が近寄ってきたように思えた。それぞれの山腹の木々が朝夕は以前より明瞭に見える。正面の山も近くなった。
僕は、渓谷に分け入っているらしい。
標高が高くなったせいか耳鳴りがする。
たくさんの大岩を迂回しながら進む。