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ネヴァーランド

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道なき道を行くのではない。四方八方に緑のトンネルが通じている。始終どちらに行くべきか迷う。大河から離れず、上流に向かうという原則に従って、適当に選ぶ。
太陽か月の光が差し込むと、葉や草や幹や茎や腐植土が、光と翳でまだら模様となる。光は風のそよぎによって揺れ動き、なにやら生き物が、立ち歩くか這い回るかしているようだ。
腐植土は甘酸っぱい匂いを常に立ち昇らせている。土地の成分によって、匂いは様々だが、いずれも深い官能性に満ちている。時には歩みが止まるほどだ。この足の下には何が隠れているのだろうか。
足元のやわらかさが、僕らの足音をほとんど消しているが、それでも僕らを察知する者がいる。
攻撃はしてこない。逃げていく。こちらが複数だからか。
明け方、慌てて飛び立つ者がいる。木の枝や葉を突破してトンネルの上に脱出する。
僕の目の前に、小枝が落ち、葉が舞い、朝露が降ってくる。
飛び立ってもトンネルから出られない者もいる。
例えば蝶。
幾重にも重なる草の葉と木の葉は、蝶を閉じ込めている。緩慢な翅の打撃には、わずかに揺らいで応えるだけだ。衝突のたびに、蝶は空中で身をよじる。燐粉が散乱し、木漏れ日に照らされて金色に輝く。
寝場所を確保することに、僕はとても神経を使った。眠っているときに襲われたら、ひとたまりもないからだ。疲れ果てて眠ってしまったことを思い出すとゾッとする。
ある時から、寝場所の選択と設営は、アヤカがするようになった。
昼であれ夜であれ、一定以上疲労が蓄積すると、アヤカは立ち止まり、足で土を掘り始める。その力と手際よさは驚くばかりだ。僕も土掻きを手伝う。僕らは穴に体を埋め、頭を落ち葉の下にもぐりこませて眠る。アヤカの体温はとても高く、心臓の音は大きいが、僕はすぐに寝入ってしまう。
一度だけそうではなかった。
落ち葉の隙間から、闇の奥に、たくさんの光が見えた。
大木の枝えだに、発光する昆虫が、集団でとり付いているらしかった。
一斉に輝き、一斉に暗くなる。息をしているようだ。気がつくと僕もそれに合わせて息をしていた。
いつの間にか眠ってしまったが、夢の中でも光は息づいていた。もしかして、実際に明け方まで見続けていたのかもしれない。
朝の音楽は、森の生き物や河やその他得体の知れないものたちの織り成すシンフォニーだ。
前回の演奏との微妙な違いを味わうのが僕の楽しみとなった。
僕の脳の真ん中で父の声が聞こえた朝があった。父は追ってくるどころか、僕の中に居ついていたらしい。
おはようタダヨシ。目が覚めたかい?
僕はかつて投げかけた質問を思い出し、繰り返してみた。
外はどうなっているの?
父もまた繰り返した。
茫々たる虚無が広がっている。
ああ、なんたる正反対。
僕は、一瞬一瞬、外の世界の詳細極まりない具体性、破裂する力、満々たる豊饒を体験しつつある。これらのどの一隅にも虚無の忍び込む隙間はない。
父はいったい何を言わんとしたのだろうか。
さて、目覚めるたびに、アヤカは成長している。縦も横も大きくなっている。おまけに、体表のパイプが密になり、羽根の先が細かく分化して、微風にもそよぐ灰白色の羽毛が全身を包むようになった。その分さらに体が膨れて見える。
活動力も極めて旺盛だ。
僕が立ち止まって一休みしている間も動きをやめない。
僕をじっと見ながら、何段階かに分けて顔を突き出し、一気に引くと、横ずさりする。
目線が僕より高くなり、目と目の間が随分幅広くなった。
僕の周りを横に、或いは前向きに歩き、時に翼を上げて?サインを作る。
それにせかされて僕は再び歩み始める。
これほどの成長と活動力を維持するために、始終食べている。僕もよく食べるが、その何倍も食べる。
アリ、団子虫等の小動物、花弁や草の葉や種子。
片っ端から食べるので失敗もする。
奇声を上げて疾走を始めたことがあった。後を追って、草むらで息も絶え絶えの姿を見つけた。顔を見ると、左側が膨れきって目がふさがっていた。ラフレシアの蜜をとろうとして昆虫に刺されたのだ。
多面体をなす黒色の種子を大量についばんで、蕁麻疹が出たこともあった。
アヤカは、くちばしを腐植土に突き刺して、環形動物を引っ張り出すのが得意だ。咥えて引くと、土に直線が走り、延びきった環形動物の体が跳ね上がる。なおも引くとそれがちぎれて、黄色い体液がどろりと切れ目から垂れる。くちばしに咥えられた断片と、地中から露出している残りが、調子を合わせてのたうつ。
水辺近くを通るときには、必ず浅瀬に入る。
狙いをつけると、すばやく頭を突っ込む。泥の中に潜んでいたひょろ長い脊索動物を飲み込む。必ず頭からだ。
くちばしを真上にして、上半身全体で小刻みに弾みをつける。喉の皮膚はまだ透明で、羽根もまばらなので、獲物のまだらな体表が透けて見える。食道では窮屈そうにもがき、くちばしの外では、尾びれを大きく振ってもがく。
僕も真似して試みたが、無理であるのがすぐ分かった。アヤカの高度な能力にやや嫉妬した。
ある時、アヤカが浅瀬で座り込んだことがあった。排尿か排便かとも思ったが、いずれにしても見たことがない動作だった。
脚をたたむとかろうじて浮いた。だが、たちまち水に流されていく。
僕は慌てて岸辺を走った。
アヤカはくるくる回転しながら翼をばたつかせている。
僕は先回りして浅瀬で待ち、全身で受け止めたが、踏ん張りきれずに一緒に流された。
水中で、アヤカが、まだ脚をたたんでいるのを見た。
脚を伸ばせ、脚を。
僕はその脚にぶつかった。それが反射反応を引き起こし、脚が伸び、僕は踏みつけられた。
アヤカはそのまま浅瀬を歩き、岸辺に立つことが出来たようだった。
僕はたらふく水を飲んだ末に、やっと岸辺にたどりついた。
何度も全身を震わせているアヤカのそばまで戻った。
お互い無事でよかった。だが、無謀なことをするなと、どうやって伝えたらよいのか。
僕は頭を悩ませながらふとアヤカの足元を見た。
足の指と指の付け根に、膜が張りかけている。
今まで気づかなかった。
脚がオールになろうとしていた。

25)

行く手を横切る新たな川が現れた。大河へ流れ込む支流だ。
向こう岸の葦を、一本一本見分けられる。川幅は大したことはない。
流れの音程は高い。浅いからだ。
歩いて渡れないことはないだろうが、アヤカのことを考えると躊躇する。
支流に沿ってずっと進むことはしたくなかった。
夜空を赤紫に染めた火山の噴火を思い出す。
この土地、どこにもない場所は、火山帯の上にあるのかもしれない。
上流に向かえば、ただでさえ扇状地になるのに、火山灰や溶岩流で成り立つ場所に至ったなら、川が伏流になりかねない。
僕は既に実例を知っている。裂け目から地下の伏流水の音が聞こえてきたことを思い出す。
川が細ければ細いほど、地表から消える可能性も高い。
水から離れてはならない。大河に沿っていくべきだ。
渡れる場所を探さねばならない。
後ろを振り向いた。
アヤカが、川風に羽毛をなびかせながら突っ立っている。
やせっぽっちだった体はいまや堂々たる紡錘形となり、太くなった首はコニーデ型火山のように胴からせり上がっている。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦