ネヴァーランド
一般に、海に近くなるほど、生き物の種類と数は多くなる。上流に向かうべきだろう。仲間達もそう考えただろう。あるいは、彼らの本能がそう教えただろう。
水は貴重だから、河から離れるべきではない。川辺には食べ物も豊富だ。淡水プランクトンから魚類まで。魚類の死体も含めて。
だから彼らは河に沿って上流に向かっただろう。僕もそうしよう。
案の定、目の前の湿地の向こう岸に、上流に向かうたくさんの足跡が残っていた。
それを見つめながら湿地帯の縁に沿って進む。近づくにつれて、うつむく僕の視野いっぱいに彼らの足跡が広がる。その足跡を踏みながら上流に向かった。
いくつもぬかるみがあった。上流側には乾いた足跡が残っていた。ごろた石が転がる粘土の原っぱにも、泥水が溜まった足跡が残っていた。追跡は容易だ。
少数の、向きが逆の足跡があった。
離反者だろう。不安が募った末の逃亡か、喧嘩別れか。
集団に属さない別の者が、向こうからやってきて、遭遇したのかもしれない。
待っていたのかもしれない。
共通の祖先を持つ親戚が、よくおいで下さいました、お待ちしていました、と歓迎したのかもしれない。
僕は興味深く百八十度向きが違う足跡の意味を想像する。
腹が空いてきた。
食べ物は探せばあると見込んできた。その点は楽観的だ。
前進しながらきょろきょろする。
岩の間をすり抜けたところで、ゆるい坂の下に大きな白い塊を見つけた。
窪みに木の枝と藁が敷いてある。それに乗っかり、ふくらんでいる。
近づくと小山のようだ。
ゆっくりと膨張収縮を繰り返している。時々痙攣が走る。往復する風の音。息をしている。生き物だ。
表面は、地が見えず、パイプの網で覆われていた。
幹となる太いバイプの左右に、たくさんの枝パイプが伸び、さらにまた枝が伸びて、一枚の羽根をなしている。その羽根が全身を覆っている。翼手竜の進化型だろうか。
尻の近くに大きなボールがいくつか見えた。卵だ。
青みを帯びた白色だが、ひときわ大きなうす緑色の卵があった。
僕は、腹の下から半身を露わにしているその卵に両手と額を押し付けて、巣穴からそっと押し出す。
五、六回転させたところで、割ろうと試みた。手でも額でも小石でも歯そのものでも歯が立たない。
周囲をうろついて調べ、岩が砂に楔のように突き刺さっている場所を見つけた。
砂側まで卵を押し、坂道を押して登った。
重心をはずしてしまい、卵が転がり落ちた。ゆがんだ楕円体だから扱いにくい。
やり直し。
また転がしてしまった。
シジフォスの努力は、しかし数回目で免れて、卵は垂直な側から落下した。
割れた卵に駆け寄った。
中身が、殻の縁からあふれようとしていた。
縁の真下で仰向けに寝転び、それを顔に浴びながら啜った。おいしい。脚で体の位置を調整しながら、しばし至福の時を過ごした。
したたりが止まった。もっと、と思う。
鼻をうごめかせながら、立ち上がって、殻の縁に両手をかけて、卵の中心をのぞいた。
液体ではない内容物があった。
青黒い塊が、粘液の中で脈を打っていた。
心臓だ。
粘液の海から、まばらなパイプをつきたてた首が現れ出た。
水色の球の表面を水平線が上から下に走った。まぶたを開いたのだ。
僕は跳び退いた。
これを食べるほどまだ腹は空いていない。そんな勇気はまだ出来ていない。
その者は、震えながら粘液の浴槽から立ち上がった。殻の外に、油色の足を踏み出そうとしたが、縁に引っかかり、体だけが外に転がった。
惨めな鳴き声を発した。口から粘液が垂れた。
その者は、地面を這い回る。喉を地面に押し付けながら、足を突っ張って立とうとした。横倒しになる。この作業を繰り返す。涙ぐるしい努力だ。見ていられないが見る。
ふらふらしながらも、やっと立ち上がった。
濡れたピンクの体表から、まばらな灰色のパイプが突き出ている。
僕を、見つめて、決してよそ見をしない。
僕が少し横に動くと、その者も同じ方向に動いた。
僕が退くと、ついてくる。走ると走る。すぐにけつまずいて鳴いた。
ああ、しまった。
刷り込みが済んでしまっている。僕を親と思っている。
悪いけど面倒は見られないよ。こっちはしなくてはならないことが控えているんだ。
しかし。
こんな弱者は、このままだと、たちまち襲われて食われてしまう。
僕はゆっくりと道を戻る。母親のところに戻してやらなくてはならない。
弱者はいそいそよろよろついてくる。
白い塊のところまで戻って来た。
僕は思い切ってそのパイプの層に体をぶつけた。
白い塊は奇声をあげて立ち上がった。僕は跳ね飛ばされた。
塊は、左右に翼を広げ、風を起こして羽ばたくと、一瞬宙に舞った。漆黒の空が白くなった。
僕の背後の幼児を認めて、さらに怒りは募ったらしい。
羽根をまき散らしながら、仰向けにでんぐり返った僕を跳び越えて、幼児の背後に着地した。
一回前へジャンプすると、両脚の間に幼児を挟んだ体勢で、黄褐色のくちばしをのばして、僕をついばもうと攻撃してきた。幼児を挟んだまま跳んでくる。
僕はほうほうの体で逃げた。
走りに走り、走り疲れてどこやらで眠ってしまった。
陽が高く上ってから目が覚めた。久しぶりに、昼間に起きた。体中が痛い。
川辺に行って、大量の水を飲んだ。
口をすすぎ、頭を水に突っ込み、かき回した。
顔を上げると、太陽が目を痛烈に射た。
折れ線で空を区切る山の稜線まであわてて視線を落とす。その下の山肌は逆光で真っ黒なので、さらに下って、川面の反射光で目をならしていると、背後から歓声が聞こえた。
振り向くとあの子供が、両翼を?の字に開いて、うれしそうにジャンプを繰り返していた。
僕は大声で、帰れ、帰れ、母ちゃんのところへ帰れ、と叫んだ。
威嚇のためのあらゆるパーフォーマンスをやってみた。
無駄だとは分かっていたが。
母ちゃんがどれだけ引きとめようと努力したか。
あの恐ろしくて巨大な母ちゃんに同情した。
僕は母ちゃんに替わることなど出来ないんだよ。
もうちょっとだけ君の成長が遅ければ、君を食べていたんだよ。
僕を信用するな。
しかし、子供は、?サインを左右に振りふり、駆け寄ってきた。
そのVは、勝利か、ピースか。
意味があるはずはない。ただ本能的にうれしいのだ。
くっつきそうな両眼が輝き、半開きのくちばしからよだれが流れ、歓喜の笑顔が迫る。
翼を閉じろ、使い方が違う、と怒鳴った。もちろん無駄だ。
あーあ、仕方がない。
僕は、このお荷物に、アヤカと名前を付けた。アヤカシのシを省いた。
呼びやすいからだ。
24)
僕は、夜となく昼となく、雨にも負けず風にも負けず、前進を続けた。
時々、父が背後についてきている妄想にとらわれて、後ろを振り返る。
ついてくるのはアヤカだ。
昼は僕からやや離れているが、夜はすぐ後ろを追ってくる。足音と息の音が聞こえるほどだ。
明るいうちは視覚が効いているが、暗くなるとほとんど目が見えず、聴覚と恐らくは嗅覚で動いていると思われる。
僕はぬかるみや砂地には入り込まない。空を飛ぶ者達に襲撃されたら逃げ場はないからだ。しかし仲間達の民族大移動の足跡を確かめるために、その縁を調査することはある。
普段は専ら密林の中を進む。