ネヴァーランド
ある時期を境に、僕の学習は低迷状態を脱して、蓄積と系統化の段階に入った。
やがてナレーションが、新しい単語の発音を示す場合を除いて消えた。
速読の際の画面スキャンの妨げになるからだ。
父の声はたいてい直接天井から降ってくるようになった。例外があった。多分父が施設を離れていた場合だろう。
僕は学習に例外を作らなかった。というより、父が作らせなかった。どんなに体調不良のときでも、放蕩三昧のときでも、学習を続けた。
僕が今持っているものは、父から与えられた知識だけだ。拠り所はそこしかない。
この知識が外の世界でどれだけの力を持つだろうか。
仲間達にとって、希少価値はあるだろう。役に立つこともあるかもしれない。そう願うしかない。
その知識は、父によって厳密に選択されたものであることに僕はもう気づいている。
持っている知識だけでなく、知識一般を、今や僕は相対視している。
なにしろ、言語以前の世界を、体験してしまったのだから。
それを思うと不安はいや増す。
だがもう賽は投げられたのだ。
鏡から目を離した。入り口の長方形で切り取られた部屋の床を見た。
あの昆虫がシャワールームから飛び出すときにも同じ角度で見えたはずだ。
その床には、走りよってくる僕がいたはずだ。
その時の僕と逆順に歩いて、椅子に坐り、キーボードと暗いモニターを見る。
何度も取り替えられた装置だ。
ここにも小バエがいた。外の世界から来た誘いの使者たちだ。
二、三匹モニターの周りを音を立てて飛び回っている。Fのキーに一匹とまっている。打ちすぎてへこんだキーの中心にうずくまっている。
僕は振り向いて再び床を見下ろす。
ヘレンを組み敷いた床でもある。その後の破廉恥行為のいくらかもそこで実行された。
その行為はベッドでもなされた。眠りとあの行為が思い出のうちに重なって、ベッドはひととき僕を陶然とさせた。
椅子を離れ、部屋の出口に向かう。
荷物は持たない。足手まといになるだけだ。
最後に振り返って部屋を見回した。
いつもどおりの、余計なものが一切ない、清潔な部屋だ。
いつ帰ってくるかわからない。そもそも帰ってこられるかどうかもわからない。
さよなら、とつぶやいて、部屋を出た。
22)
誰もいない体育館を突っ切る。
Lern macht Frei の標語が視野の端に見えた。
学習が自由をもたらす。
僕を励ましているのか、それとも揶揄しているのか。
やはり誰もいない団地の傍らを通り過ぎる。
アパートとアパートの間に、タランチュラが巨大な巣を張っていた。
その中心に蛾が引っ掛かっている。
罠にかかってからまだ間もないと見え、最後の足掻きで巣を揺すっている。
糸はますます身に絡む。タランチュラは縁のほうで見守っている。
僕は、乾いた川床にすべり降りた。
真ん中を無数のアリが列を成して駆けていた。上りと下りがそれぞれ一列ずつある。
枝の列が左右に何本も伸びて、アパートの部屋に残された食べ物へ向かっている。
僕は暗渠に入った。
以前は走った。今回はゆっくり進む。
トンネルの断面は正確に円を描く。
灰色の円筒がつながって出来ている。白っぽい継ぎ目のところで下に向かってやや左側に折れ曲がる。
だから出口は見えない。
継ぎ目のなす輪が、だんだん小さくなりながら奥へ伸びている。
その間隔は、左端が最も公比が小さく、しかも三っつ目で消え、右端が最も公比が大きい等比数列をなす。
その三っつ目の継ぎ目を過ぎたので、あたりは急に暗くなった。
暗くなったからではなく、気になって後ろを振り返った。
部屋を出てからずっと父が天井や背後から見ている気がしていた。何らかの形でついてくるかもしれない、見てわかるものなら見てみようと思ったからだ。
だが、左側の湾曲面に、団地の明かりが反射しているだけだった。まさかこの暗渠の天井を透かして僕を見ることは出来ないだろう。恐らく。
父は追ってこない。
父はこのところ学習以外のことについては話をしなくなった。
親としては、早まるな、考え直せ、こんなに危険だ、こんなにお前は無知だと、脅したり賺したりするのが普通だ。普通を実は知らないので想像するのだが。
父は沈黙を続けた。
シャッターは上げたままだ。鉄柵もはずしたままだったことがわかった。
勝手にしろということか。
物思いにふけっていて、僕は水溜りに落ちた。
床がはがれ、何本かのぐねぐね曲がった弾力性のある金属柱が飛び出ていた。
僕は泥と半腐りの有機物に、半身を浸してしまった。
舌打ちしながら這い出た。
目の先の床に、乾いた泥で出来た無数の足跡をみつけた。
仲間達もまたこの道を通ったのだ。
父がわざと鉄柵をはずしたままにしていたと思っていたが、彼らがここを通ったとなると、もう一つの可能性が考えられる。
集団戦術の実行があったかもしれない。群れをなして鉄柵に体当たりする彼らの姿を思い描く。
遠くに、薄明るい円盤が見えた。windowだ。
進むにつれてその円盤は大きくなる。
かすかに、水のにおいがする。水の流れる音、木の葉や草のざわめき、動物達の鳴き声が聴こえる。もう僕の周りに小さな昆虫達が飛び回っている。
僕は、windowの縁にたどりついた。
見下ろす崖下は、ソテツやセコイアに囲まれて暗い奈落になっている。
林の間から大河の川面が光って見える。
空に星はないものの、低く浮いたオレンジ色の衛星からの光が、反射しているのだ。
月はわずかに右縁を欠いた円形を成している。
僕はそれから目を離せない。僕をみつめる父の目だ。
この呪縛を解くように、なだらかな波型の雲が水平に移動してきた。
ひとつ、またひとつ。雲たちは、少しずつ月を隠していく。
ぼくはつぶやく。
今まで、ありがとう。
お父さん、もういいよ。
ついに、雲は月を覆い、あたりは漆黒の闇となった。
僕は、闇に向かって跳躍した。
23)
下は砂地だったが、右手だけを硬い岩についてしまった。
手のひらを見ると、うっすら血がにじんでいた。痛みは感じない。
舌で舐めてから右手を握って左手とともに砂地につくと、じっとしたまま動かない。
自分のたてる音とそうでない音を混同しないためだ。
手前の森林、大河、その向こうの、山へ連なる大森林から、たくさんの音が聞こえてくる。
叫び、いななき、わめく声。交互に吼えあう声も聞こえる。何を伝えているのか。
枝や草がすりあう音。岸辺を打つ水音。跳ね、走り、羽ばたき、争う音。石が跳ねたり、崖から転がったりする音。
長い周期の低い唸り声。生き物ではなく、山々が音を立てているのかもしれない。
周期が様々に異なる音が混じり、短周期のトレモロに至る。
手の込んだポリフォニーだ。
優しい音はひとつもない。響きと怒りが僕を圧倒し、金縛りにする。
恐ろしい。しかし、ちょっと聴き惚れる。
気を取り直して周囲をさらによく見る。まず自分の体のすぐそばだけを見回す。
それからやや遠くを見る。
崖を背に、少しずつ半径を増しながら、半円状の弧に沿って、視線を移動する。
結局、すぐ近くには、僕に関心を持つ者はいないことが分かった。
僕の関心は、どちらに進むべきかということだ。
下流には、たくさんの恐竜や化け物どもがいた。