ネヴァーランド
頭部の複眼が闇の中で光る。前胸部は、三角形の頂点を丸めた形をしており、前方にせり上がって頭部を半ば隠している。
折りたたまれた羽が腹部を覆う。半透明のプラスティック製であるかのようだ。透けた向こうに収縮を繰り返す腹のしわが見える。
羽にプレスしたようなレリーフ模様がついている。法線方向の力に対抗するためだろう。
短い前脚に比べて、後ろ脚は長く太い。返しの働きをする棘がびっしり並んで、鉤のついた足首に至る。奇妙な高音は、腿が腹にこすれて出るらしい。
視線を感じたのか、そいつの動きが止まった。
僕は椅子から立ち上がった。
そいつが消えた。なんという逃げ足の速さだろう。
シャワールームから、壁にぶつかる音が、続けざまに聞こえた。やつはそこに逃げ込んだのだ。
僕が近づいたとき、そいつは僕の頭を跳び越えて部屋にとって返した。
そいつの裏側はひどく臭った。
吾郎と一緒に訪れた、あの動物の墓場の、酸化油、アルデヒド、腐敗の臭いだった。
振り向いた僕は、そいつがベッドに張り付いて鼻先をもぐりこませようとしているのを見た。おお、けがらわしい。
そいつに跳びかかったが、後ろに眼があるかのように逃げられた。
やつは壁にぶつかった。床に落ちて、壁につたって走る。コーナーでまたぶつかる。
僕のほうに向かって体勢を整え、短い前足を精一杯伸ばし、静止した。
跳びかかってくるかと思って怯んだ瞬間、何かを引っぺがす音がした。
羽を広げたのだ。
体の幅が五倍になった。
轟音が部屋中に響き、やつは宙に舞った。
たちまち天井に音を立ててぶつかり、ちょっと落下しかけたものの、再び上昇した。
背中を天井に付けたまま、羽で天井を連打する。
向きをグネグネ変えながら飛翔する。
裏返しにゲンゴロウが泳いでいるみたいだ。
結局壁にぶつかり、回転しながら落ちた。
仰向けなので、六本の脚をじたばたさせる。
とじかけた羽の片方を再び開き、それを支えにして裏返った。
僕はそいつの左後ろ脚に跳びついた。
両手で押さえ込む。棘が痛い。
脚を曲げ伸ばしするたびに、油の切れたちょうつがいの音がする。腹を膨らませたりしぼめたりして鳴き声も上げる。
脚が固定されているので、体本体が左右にうごめく。体重は見掛けほどではないのがわかる。
脚が切れた。切れてもまだ動いている。付け根の白い肉からは、透明な組織液が流れ出る。
やつはケツを振り振り逃げていく。その肛門がみるみる膨れ上がり、パッシュと音を立ててカプセルが飛び出した。
それは湯気を上げながら転がった。
片側に縫い目がある。ひと目ひと目を針で留めてある。
僕は爪を立ててカプセルを引っ掻いてみた。
中は二十以上のセルに仕切られていて、白くて柔らかそうな卵が並んでいた。
やつの姿はもう見えない。雌だったのだ。
僕の仲間達の残した半腐りの食料を食べに行ったのか。
あるいは、団地の大通りから、枯れた川に入り、暗渠を辿って、川原へ帰ったのか。
しかし、金網の張ってある鉄柵を、アリはともかく、あの大きさの生き物が通れるはずがない。
やつがこの施設に侵入したのは近頃だ。不潔きわまる異境のものが、この施設にもとから居たわけがない。
僕は気がついた。何でこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。その可能性に思い至らなかったのだろう。
鉄柵はもうないのだ。
21)
僕は体育館から帰ってきた。
まっすぐシャワールームに向かった。
張り付いている小バエを、息を吹きかけて追い払うと、鏡を見た。
平静な振りをしているのが見て取れる。
僕は僕に向かってつぶやく。誰に聞かせるわけでもないので、出る音は気にかけない。
「覚悟はいいかい、タダヨシ」
やはり聞き耳を立ててしまう。父の声とは似ても似つぬ代物だった。
顔を突き出してさらによく見る。
右目の下が痙攣している。
右目だけを閉じたり開いたりしてみたが、痙攣は止まない。
だが、こんなことは、出発を遅らせる理由にならない。
できる限りの準備はしてきたつもりだ。
身体を鍛えた。
喉からあふれるまで食べたあと、断食をした。食い溜めの訓練だ。
水についても同じく、吐く寸前まで飲んで、何日も飲まないことを繰り返した。
プールでは、速く、または長時間泳ぐ練習以外に、潜る訓練もした。
おもりになる石が見つからない場合を想定して、空気をあまり吸い込まなくても潜っていられるように練習した。たくさん吸うと体が浮いてしまう。
プールの底に背をつけて水面を見ながら、じっとがまんする。
両生類が水面を泳いで通り過ぎるのを想像しながらカウントする。
両生類一匹、両生類二匹、両生類三匹……
がまんし過ぎると、苦しいのを通り越して眠くなるのが分かった。
体育館では、目をつぶって平均台を歩く練習をした。段々速く歩けるようになり、終にはほとんど走れるようになった。
登り棒のてっぺんにしがみついて、長く耐える練習もした。下で恐竜が大口を開けて待っているのを想像しながらだ。
ジグザグに走ったり、回転しながら横に走ったりもした。ヘビだ、ヘビだ、と叫びながら。
一方で、僕はパソコンに蓄積された学習の記録を総復習した。
父による教育が開始されたシーンはとりわけ強く記憶に残っていた。
何度も繰り返し見ざるを得なかった画面だからだ。
当時僕はまだ小さかったので、椅子は階段のついた脚立だった。
もちろんキーボードは打てない。父の声を聞き、画面を見るだけだ。
教育が始まる前は、ぼんやりとした断片的な記憶があるだけだ。
何度も父に抱かれて揺れていたはずだが、父のイメージは欠落している。父は何も話しかけなかったと思う。ただ、歌を歌っていたような、笛を吹いていたような気がする。僕は甘美な半醒半眠状態をむさぼっていた。
だから、父の声が初めて響き、画面に何かが踊り始めたとき、恐怖のあまり脚立から転がり落ちそうになった。
「初めに言葉がある。言葉は私とともにある。私が言葉だ」
ナレーションと文字が同調していた。僕は、話し言葉と書き言葉を同時に教えられることになった。
「どのようなかたちで言葉は現れるか。 お前が聞いている音の連鎖、お前が見ている模様の連続としてだ」
幼児の僕は、音と映像に戸惑うばかりだ。何が起きているのかさっぱり分からなかった。
「言葉は指し示す。その瞬間、指し示した先に、モノ、あるいは、コト、が出現する。
このマジックをこれから学習していこう」
今だからこそなるほどとは思うものの、白紙状態の幼児に向かってこんなことをするとは、何と乱暴なことだろう。
何せ僕は鏡が何かもわからないガキだった。初めて鏡を見たとき、奥にいる誰かさんに近づいてお友達になろうと、鏡と壁の境目を引っかいたものだった。
乱暴は続いた。
例えば、ヒル、というナレーションと同時に画面が真っ白になり、昼という文字が真ん中に浮かび上がった。ヨルというナレーションと同時に画面が真っ暗になり、夜という文字が真ん中に浮かび上がった。
こっちはたまったものではなかった。
僕が学習を続けられたのは、学習以外に注意を引くものがなく、僕の好奇心が旺盛だったからだろう。僕のうかがい知れない父の巧妙さもあっただろう。