ルナティック・ハイ
蹴られた男は壁にぶつかりぐったりと倒れ、アリスがその男に静かに近づこうとした瞬間、火花の散るような音が聴こえた。
アリスの頭に殴られた衝撃と、電気的な衝撃が躰を駆け巡った。
そのままアリスの電脳は停止して床に倒れた。
その傍らに立っている男の手には、電磁ロッドが持たれていた。男は二人組みだったのだ。
しかし、なぜ男たちが瑠流斗の部屋に?
夕方になりアパートに帰ってきた瑠流斗は、その光景を目の当たりにした。
荒らされた部屋と、消えたアリス。
無表情のまま淡々と部屋を見渡し、アリス以外になにかなくなった物はないかと、簡単な片づけをしながら歩いた。
「これだけだな」
アリス以外になくなっていた物は、パソコンのハードディスクだった。
ハードディスクと言えば情報の宝庫である。個人情報から、仕事に関する情報、ありとあらゆる情報が入っていたに違いない。
しかし、瑠流斗は平然としていた。
デスクの脇にある本棚から分厚い百科事典を取り出し、瑠流斗はその表紙を開けた。すると、中にはなんと外付けのハードディスクが入っていた。盗まれた物はダミーだったのだ。あちらには基本的なシステムしか入っていない。
部屋の現状を見終わった瑠流斗は、何事もなかったようにコーヒーを淹れはじめた。しかも、豆からだ。
出来上がったコーヒーの香を確かめ、瑠流斗は静かなひと時を味わった。
アリスが攫われ、部屋が荒らされたというのに、焦るような気配はまったくない。異常なまでに落ち着き払っている。
部屋はとても静かだった。
明るく元気なアリスもいない。
隣人の男も死んだ。
瑠流斗は目を閉じて思考を巡らす。
部屋を荒し、アリスを攫ったのは何者か?
これが1番の問いだろう。
瑠流斗が狙われる理由は山のようにあり、狙う者の数も知れない。選択肢と可能性はいくらでもあった。
現在、瑠流斗が抱えている依頼は一つだけである。
影山雄蔵の殺害。
推測だけではなにも解決しない。
次のアクションが起こることを瑠流斗は待つほかない。
冬の夜は長い。
瑠流斗は何もせず、ただじっと椅子に座って目を閉じていた。
どれくらいの時間が過ぎ去ったのか、電話のベルが鳴った。
慌てずに瑠流斗は受話器を取った。
「もしもし」
『オートマタを預かっている』
機械人形、自動人形、魔導人形、呼び名はいくつもある。アリスを攫った奴らからの電話だった。
「取引条件は?」
『今抱えている依頼から手を引け』
「今といわれても、?どの?依頼から手を引けばいいんだい?」
『とにかく全ての事件から手を引け』
鎌には掛らなかったが、どの道、遂行中の依頼は1つしかない。
「それでオートマタはどこに取りに行けばいい?」
『お前が依頼から手を引いたという証を立てるのが先だ』
「難しい注文をつける……」
職業柄、契約書などの書類は残さない。契約は口約束だ。
「わかった。今抱えている依頼の契約書を全て持って行こう。それを渡すから、破棄するなり好きにすればいい」
『マドウ区の246号線沿いに改装中の大型スーパーがある。店名は××だ。そこに22時に来い』
「22時とは早めの時間だね。ところでハードディスクも返して――」
通話が切れる音がした。
「……不躾な人だ」
瑠流斗の棲んでいるアパートはホウジュ区にある。指定場所のマドウ区はホウジュ区と隣接した都市だ。
まだ指定の時間まで余裕がある。
キッチンに立った瑠流斗は包丁を握り夕食の準備をはじめた。
切った玉ねぎをなべ底で炒める。他に牛肉やジャガイモ、ニンジンなど材料が見受けられる。どうやら今日はカレーらしい。
カレーを煮込みはじめると、瑠流斗は荒らされた部屋を几帳面なまでに片付けはじめた。
黙々と片付けられた部屋は前と寸分違わない。まるで時間を巻きも戻ししたような片付けようだ。
掛け時計は19時を回っていた。
「さて……」
カレーはまだ煮込んだままだ。
瑠流斗は鍋に火をかけたまま部屋を出た。
近くに借りている倉庫からオートバイを出し、瑠流斗はマドウ区に向かって走り出した。
瑠流斗が跨っているオートバイは魔導式のエンジンを積み、小型軽量ながら800?の排気量を誇るデュアルパーパスだ。
デュアルパーパスとは、舗装路[オンロード]でも未舗装路[オフロード]でも走ることができるオートバイのことである。
オートバイの紅いフォルムに合わせて、瑠流斗が被っているフルフェイスヘルメットも紅だ。
躰に受ける風は少し湿気を含んでいた。夜空を見上げると星一つない曇天だった。今にも雨が降って来そうな天気だ。
指定された場所は車の通りが多い道路だった。国道を曲がってすぐの場所にあり、おそらく深夜帯になっても車のライトが途絶えることはないだろう。
オートバイを駐車場に停め入り口を探した。ひと目に付かない職員用のドアの鍵が開いていた。
建物の中に入ると、商品棚も全て撤去されており、壁に貼られた透明のビニールシートやペンキの缶が目に入った。
道路沿いはガラス張りの壁で、夜明かりが多少は入ってくるが、店の奥となると暗闇に包まれている。
瑠流斗は構わず暗闇の中を進んだ。
「そこで止まれ!」
男の声が闇に響いた。
すぐに、
「瑠流斗様!」
アリスの声も聴こえた。
最悪のケースとして人質がいないただの罠、という可能性もあったが、少なくとも人質は確認できた。次は取引をする意思が相手にあるかだ。
瑠流斗はスーツケースの中から数枚の書類を出した。
「現在、依頼を受けている契約書を全て持ってきたよ。アリス君を返してもらおう。あとハードディスクも」
ハードディスクは重要ではない。あたかも重要であると思わせているだけだ。
そして、契約書などはじめから1枚もないので、全てとはゼロ枚である。瑠流斗は適当な書類を印刷して持って来たのだ。
「スーツケースごと書類をこっちに投げろ!」
要求してきた男に瑠流斗は平然と答える。
「無理だね。暗闇でなにも見えない。どこに投げていいかわからないよ」
瑠流斗の眼前に広がっているのは闇。声はその中からしていた。
「声のする方向に投げろ!」
「ボクは?君たち?を信用していない。先に投げてちゃんとアリス君を返してもらえる保障はない」
先ほどから会話をしているのは男ひとりである。?君たち?という言葉は、男が所属する組織を指してのことか、それとも……。
「いいから早く投げろ!」
「仕方がない。投げるからちゃんと受け取りたまえ」
まるでハンマーを投げるように、スーツケースは力いっぱい投げられた。
豪速で飛んだスーツケースはアリスを捕まえていた男――それも暗視ゴーグルをつけた顔面にヒットした。
骨が折れる音が響くよりも早く、瑠流斗はアリスに向かって走りながら、もうひとりいた男に向かって呪弾を放っていた。
暗闇の中に怨霊の声が木霊した。
「グァァァッ!」
胸から血噴いた男が声にならない叫びを発した。
瑠流斗はすでにアリスを抱きかかえていた。
「来てくださったんですね♪」
アリスはドキドキだったが、返ってきた言葉は皮肉たっぷりだった。
作品名:ルナティック・ハイ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)