ルナティック・ハイ
影踏み03 誘拐
「ただいま」
その言葉を言うようになったのはアリスが来てからだ。
「お帰り瑠流斗様!」
笑顔のアリスが当然のように出迎えた。
昼食には少し早い時間に瑠流斗は帰って来た。
すぐに昼食の準備をはじめる瑠流斗。やはりアリスはなにも手伝わない。
できあがったパスタをテーブルに置き、黙々と食べはじめる瑠流斗。それをアリスがじっと見ている。
「美味しいですか?」
「美味しいよ」
これで会話が止まってしまった。
アリスは少し顔を膨らませて瑠流斗を見ている。そんなことも気にせず瑠流斗はパスタを食べ終え、すぐに皿洗いをはじめた。
いつもこの調子だった。
機械人形のアリスは歯痒さを感じていた。
「わたくしのこと無視してませんか?」
「なにがだい?」
「もっと話に乗ってきてもいいと思うんですけど……」
「話をしたいなら、君が一方的に話せばいい。興味のある話題なら耳を傾け、相槌も打つよ」
なにか瑠流斗の興味を惹こうとアリスはしゃべろうとするが、なにひとつ話題が浮かばなかった。それもそのはず、アリスは瑠流斗に拾われる前の記憶が全く無く、ここに来てからも部屋を一歩も外に出たことがないのだ。
アリスは外に出るのが怖かった。
自分がここに来てから、瑠流斗は寝室を自分に明け渡してソファーで寝ている。昨日は大金を払わねば買えない機械人形用のバッテリーを買って来てくれた。そして、なにより自分を拾ってくれた。瑠流斗にはよくしてもらっている。けれど、アリスは外に出るのが怖い。
一度、この部屋を出て行ってしまったら、赤の他人として扱われそうな気がしたのだ。
「わたくし瑠流斗様のためになにかしたいんです」
「君はなにもしなくてもいいよ。なにもできないのだから」
機械人形とはいえ、高度な知性を持つ以上、傷つくこともある。アリスの胸に瑠流斗の言葉はいつも突き刺さる。この人形娘は他の機械人形よりも、感情が豊かにプログラムされているようだった。
「わたくしなにかしたいんです。でないとここに存在している理由がなくなっちゃいます」
「人形なのに、己の存在理由を問うのかい。おもしろいことを考えるね」
淡々としゃべり、淡々と皿洗いを終えた。
「己の存在理由が欲しいなら、ここを出て外の世界で探せばいい」
「イヤです、絶対にイヤです。瑠流斗様の傍にいたいんです」
「それは拾い主のボクへの忠義かい?」
「わかりません」
「ふむ、機械人形の君はある意味人間よりも高度な知性体と言える。だから大抵の機械人形はワザといろいろな感情を欠如させられているんだ。人間とまったく同じ感情を抱けば、人間のように自らの意思で犯罪を犯す機械人形も出てくるだろう。いや、過去の例をあげれば機械人形が人間に対して反逆した例はいくらでもあるよ」
皿洗いは終わったというのに、瑠流斗はまだ入念に手を洗い流していた。
「自分の存在理由を問う君は変わっているよ。君を作った人はなにを考えて、君という存在を作ったのだろうね」
「機械人形がこんな感情を抱いちゃいけないの?」
「さあ、ボクには関係ないことさ。君の勝手だ」
「瑠流斗様は自分の存在理由を考えたことはないんですか?」
答えまで少し間があった。
「――あるよ、いつも考えている。君は誰かに生かされてると考えたことはあるかい?」
「今わたくしは瑠流斗様に拾われて面倒を看てもらってます。瑠流斗様に捨てられたら、どうしていいかわかりません」
「ボクはね、人をこの手で殺し、人の命がこの世から消える瞬間、もっとも自分の存在理由を感じるんだ」
「よくわかりません」
「わからなくていいさ」
洗い終わった食器を拭いて戸棚にしまった瑠流斗は、静かにこの場から歩き去ろうとした。
「――あの、瑠流斗様」
「出かけてくる。またいつ戻るかはわからない」
身支度を済ませ玄関に立った瑠流斗は、背後にいるアリスに声をかけた。
「昨日取り替えた君のバッテリー。ボクが帰るまでに〈ホーム〉の廃棄処分場に捨ててきてくれるかい?」
「わかりました!」
アリスは声を弾ませて答えた。しかし、その声を出す前に瑠流斗の姿は消えていた。
まるでそれは、はじめてのお遣いを頼まれたときの心境。
嬉しさの反面で、アリスは戸惑いと不安も覚えていた。
――外の世界。
この部屋の外にはどんな世界が広がっているのだろう?
大よその検討は付く。まるで見たことのない風景というわけでもない。
インプットされた景色、テレビを通して見る景色、窓の外に見える景色。
この部屋を出て、果たして戻って来られるだろうか?
ドアの前に辿り尽きたとき、そのドアは再び開かれるのだろう?
しかし、アリスは瑠流斗の期待に応えたかった。
バッテリーを脇に抱え、アリスはついに外の世界への一歩を踏み出した。
部屋のカギを閉め、振り返って廊下を見る。とても廊下が長く感じた。
立ち入り禁止のテープが張られた部屋の横を通り、アリスは階段で下りた。
アパートのビルを出ると、少し風が強いように感じた。
廃棄処分場の場所はどこだろう?
アリスは瑠流斗にある隠し事をしていた。不良箇所があるのだ。
帝都のマップ機能とGPS機能が働いていない。
ここが〈ホーム〉であることは、瑠流斗の話で聞いていたが、それ以上のことはなにもわからなかった。
アリスは路地でボール遊びをする子供たちに尋ねることにした。
「遊んでいるところ悪いんだけど、廃棄処分場の場所を教えていただけませんか?」
鋭い眼つきの少年はアリスの顔を見て、すぐに遊びに戻ってしまった。
メイド服を着たアリスと、粗末な服を着ている〈ホーム〉の子供たち。貧富の差は明らかだった。
アリスは尋ねることを諦めて歩き出した。
すれ違う男が嫌らしい眼つきでアリスを見ている。なるべくアリスは顔を合わせないように歩いた。
後ろから誰かがつけてくる気配がした。
怖くてアリスは振り向けなかった。
歩く早さを上げたが、追跡してくる足音も早くなった。
何度も何度の角を曲がり、ついにアリスはアパートの前まで戻ってしまった。
まだアリスの脇には空のバッテリーがある。
しかし、これがアリスの限界だった。
バッテリーを捨てることもできず、アリスはアパートの中に逃げ込んだ。
わき目も振らずアリスは瑠流斗の部屋に戻った。
カギを開けようとドアノブに手を掛けると、なぜかドアが開いた。
不思議さよりも恐怖感がアリスを襲う。
しかし、中を確かめないわけにはいかなかった。
これでも主人の留守を任された身である。アリスは部屋の中に踏み込んだ。
部屋の奥で物音がした。けれど、アリスがドアを開けた瞬間、静かに静まり返ってしまった。
何者かが部屋の中にいることは明らかだ。
奥の部屋に行くと、下手な泥棒が入ったように物が散乱していた。確実に誰かが荒らした痕跡がある。
閉めてあったハズの窓が開いている。
アリスが窓の外に顔を出した瞬間、何者かの殺気が部屋に満ちた。
瞬時にアリスは飛び掛ってくるスーツの男を避けた。
そして、自分でも意識しないうちに男に華麗な蹴りを喰らわせていた。まるで格闘技でも習っているような蹴りだ。
作品名:ルナティック・ハイ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)