機械人形アリス零式
それは彪彦の仕業だった。大きな口を開けた魔鳥の中へアリスが吸い込まれる。抵抗すら許さず、瞬時のうちにアリスが吸い込まれた。
急に血相を変えたセーフィエルが氷の瞳で〈彪彦〉を射貫こうとした。
だがしかし、彪彦は悠然とその場に立ったまま、余裕の表情でセーフィエルを見下していた。
「何をする気ですかセーフィエルさん、わたくしは亡霊から貴女を救ってあげただけですよ。所詮、あんな物は偽物に過ぎません。わたくしの後ろにいる者が本物でしょう。この本物をどうするか、全てはわたくしが握っています。貴女の行動ひとつで、アリスさんの運命は変わるのですよ、おわかりですよね貴女なら?」
依然、本物のアリスは人質にされたまま。
機械人形ですらあんなにも我を失うセーフィエル。もしものことがあれば尋常でいられる筈がない。
もはや〈彪彦〉の言うなりになるしかなかった。
「わたくしの目的は一貫として変わりません。〈裁きの門〉を開き、そのさらに奥、〈タルタロスの門〉の先にいるあのお方の復活。そこまでできずとも、あのお方の力が?こちら側?に影響するようにしてもらいたい」
それが意味することをセーフィエルは熟知している。
幾星霜にも及ぶ戦いの歴史。
〈楽園〉を堕とされた双子の飽くなき闘争。
いくつの種族を滅ぼし、いくつの文明を滅ぼし、いくつの世界を創るのか?
魔導によって栄華を極めようとしている帝都エデン。この都市もまた過去の文明と同じ末路を辿るのだろうか?
彪彦はゆっくりとゆっくりとセーフィエルに近づいた。
「妹を救うためなら、貴女はこの世界がどうなろうと構わない筈ですよね。すでに娘さんはこの世界に解き放たれたらしいですね、貴女の策略によって。女帝のインペリアルガードの永久欠番――ノイン。本名はシオンさんでしたね。
貴女のしたことは、はじめのうちはこちら側に有利なことでしたが、最終的には想像を超えた痛手となりました。元はと言えば貴女のせいで、あのお方はこちら側に影響を及ぼせなくなってしまったのです。最大の枷が外れたというのに、あのお方を封じる力はさらに強くなってしまいました。もしかして、そこまで貴女の策略なのでしょうか? だとしても今度は不穏な企みなどしないようにお願いしますよ。人質がいることを決してお忘れなく」
ガラスの棺で眠る?アリス?。そして、〈彪彦〉に呑まれたアリスはどうなってしまったのか?
全ては〈彪彦〉の手の内に――。
幽鬼のごとくセーフィエルが立ち上がった。
「貴方の話を聞き入れるわ。〈闇の子〉の復活……世界の終焉まで付き合いましょう」
彪彦はサングラスの下で微笑んだ。
だが、そのときどこからかか声が!
「いけませんセーフィエル様!」
その声は……〈彪彦〉の体内から、アリスだ、それはまさしくアリスの声だった。
急に〈彪彦〉が苦しみだし、壊れたブリキ人形のように、ぎこちない動作で床を転げ回った。
大きく開いた嘴から吐き出されるアリス。
「セーフィエル様、早く本物のわたくしを救ってください!」
アリスに何が起きたのか?
いや、何にアリスは目覚めたのか?
そこにいるアリスは何者か?
考えている猶予はなかった。
夜風が人の背を凍り付かせる速さでセーフィエルは移動した。
?アリス?が眠るガラス管の前にはシュヴァイツの姿。だが、彼は何食わぬ顔で道を開けた。
床でもがく彪彦が叫ぶ。
「シュヴァイツさん、貴方って人はッ!!」
怒号の主とは視線を合わせず、シュヴァイツは口笛を吹きながら天井を見上げていた。
セーフィエルの手がガラス管に触れた。
尋常ではない空気の揺れ。
羽ばたいた〈彪彦〉がセーフィエルを止めようと飛翔する。
「空間転送などさせるものですかッ!」
〈彪彦〉の躰がアリスによっ鷲掴みにされ、宙を引きずられるように投げられた。
セーフィエルを中心として空気の波動が多くを薙ぎ払った。
時空が揺れる。
まるで蜃気楼を見ているような景色。
セーフィエルがアリスに手を伸ばした。
「掴まりなさい!」
伸ばされたアリスの手。だが、その手をセーフィエルが掴むことはできなかった。
泥を撒き散らし床を這う〈彪彦〉がアリスの足首を掴んだのだ。
引きずられるアリスの瞳が大きく見開かれる。
セーフィエルの指先とアリスの指先が軽く触れた、その刹那。
衝撃波が巻き起こった。
泥人形が四散する。シュヴァイツは強風を受けて壁に叩きつけられた。
消えたセーフィエルと?アリス?の眠る硝子の棺。
そして、この場には機械人形アリスの姿もなかった。
嵐の夜。
街に墜ちる閃光。地面を打ち付ける豪雨。吹き荒む狂風が耳を塞ぐ。
深夜の街を傘も差さずに歩く男がひとり。
稲光がその男の顔を照らした。
陶磁器のように白い肌。浮かび上がる紅い唇。
白銀の髪から雫がいくつもこぼれ落ちる。
そして、男から足下から辿って来た道を示す朱い印。男の流した血の朱だった。
抉られた腹、失われた手首、流れる血は地面に軌跡を描いていた。
「あれは何者だ……?」
呟く声は鋼の響き。そして、氷のような冷たさ。
再びどこかに墜ちた落雷による閃光が男の全身を輝かせた。
はだけた胸に刻まれた巨大な十字の刺青
男の職業は殺し屋だった。胸に十字を刻む殺し屋は帝都にただひとりしかしない。
宵の明星?ルシフェル?の通り名を持つ――瑠流斗[るると]。
足を引きずりながら歩く瑠流斗の視線の先に、雨に打たれ地面に俯せに倒れている人影を見つけた。
近づくとそれが少女だとわかった。
「屍体か……ちょうどいい君の血を……ん?」
瑠流斗は足先で少女の躰をひっくり返そうとして気づいた。
想像以上に重い躰。
「人間ではなくオートマタか。そんなことにも気づけないなんて、疎ましい雨だ」
瑠流斗は力を込めて機械人形の躰をひっくり返した。
蒼い瞳を見開いたまま、その機械人形は天を仰いで機能を停止させていた。
瞳の横を流れる雨粒がまるで涙のように……。
「そうか、君も捨てられたのか。君はどんな罪を犯した? それとも邪魔になって捨てられただけかい?」
不意に瑠流斗は苦笑した。
「嫌な雨だ……感傷的になる」
しばらく間、瑠流斗は雨に打たれたままその場に佇んでいた。じっと機械人形の少女を見つめ、その瞳を見つめながら佇んでいた。
どれくらいの時間が流れたのか。
すっかり躰は凍え、瑠流斗の失った手首から墜ちていた血も止まっていた。
そして、瑠流斗は機械人形の少女を抱え上げ、深い闇に向かって歩きはじめた。
それが新たな物語への序章。
雷鳴と共に誰かが其の名を叫んだ。
――アリス。
失われしアリスを探すその声は、嵐の夜に熄えた。
失われしアリス(完)
作品名:機械人形アリス零式 作家名:秋月あきら(秋月瑛)