機械人形アリス零式
ならばとアリスは突拍子もない提案をする。
「でしたら、このお店のピアノをお借りして弾いてみたらどうでございますか?」
「あはは、それはおもしろい。まだディナータイムには早いから、少し無理を言えば貸してもらえるかもしれない」
男はヤル気満々だった。すぐさまウェイターを呼んで話をつけると、ピアノを少し貸してもらえることになった。そのとき自分はピアニストでこのお店とカップルたちに一曲捧げたいのだと嘘までついた。もう男は一歩も引けない状況だった。
男は臆することなく優雅な足取りでピアノの前に座ると、ゆっくりと鍵盤に両手を置いた。あとは自動的だった。
流れるような伴奏が奏でられ、男の指は鍵盤の上で優雅に踊っていた。
ロマンチックなラヴソングが奏でられ、ときには激しく、ときには切なく、演奏はひとつの物語を奏でたのだった。
演奏は数十分に渡り続き、客達は食事の手を止めてピアノの調べに聞き惚れた。
男が最後の曲を演奏し終わったとき、店内は客で溢れかえっており、一斉に握手の海で包まれた。
嬉しそうな顔をして男は一礼し、アリスの待つ席に戻ってきた。
「なかなかの演奏だっただろう?」
「大変素晴らしい演奏でございました」
二人が話していると、ひとりの女性が席に近寄ってきた。ドレスを着たこの店のピアノ奏者だ。
「まさかシュバイツさんの演奏がこの店で聴けるなんて思っても見ませんでした」
歓喜する女性を男は不思議そうな顔を見つめた。
「僕のことを知っているのかい?」
「はい、大ファンなんです」
そのあと男は女性に握手を求められ、快く笑顔で応じた。
女性が姿を消した後、男はなにかを求めるような目でアリスを見た。
「どう思う?」
「あの女性の間違いでなければ、貴方様はシュバイツという名前らしいです」
「僕って本当にピアニストだったのかな?」
「さっきの女性に確かめてみては?」
「これだけヒントがあれば、いつでも調べられるさ。調べるのはアリス君とのデートの後でも遅くはないよ」
「……デートでございますか」
そんなつもりまったくなかったらしい。
男は急に席を立ち上がった。
「トイレに行ってくるよ」
「お待ちしております」
男はにこやかに笑い店の奥に消えていった。
それからしばらくしても、男は帰ってこなかった。
10分、30分、1時間と時間は過ぎた頃、アリスの待つ席にウェイターがやってきた。
「1時間が経ったら、お渡しするように言われておりました」
「なにでございますか?」
「手紙と言付けを――急用でデートを途中で抜け出すことを許して欲しい、食事代は払っておいたのでいつもで店を出ていいとのことです」
手紙を渡されたアリスはすぐに目を通した。
――記憶を取り戻したありがとう。お礼としてひとつ忠告がある。今夜は決してホウジュ区には近づいてはいけない。
男はすでに記憶を取り戻していたのだ。そして、謎めいた一文。ホウジュ区にいったいなにがあるのか?
アリスはすぐさま店を出て、男の行方を捜すことにしたのだった。
男はホウジュ区の教会に来ていた。
「今までなにをしていたのだ!」
怒声を浴びせる黒い影に男は悪びれた風もなく言う。
「レディーとデートしていてね。怒るのは当然としても、階位[クラス]は僕が上だということを忘れて欲しくない」
「しかし、昨日の晩からおまえが行方不明になって、俺たちがどれだけ焦ったと思っているのだ」
「政府の人間に殺されかけてね、船から海に落ちて死にかけたんだ。そのあとトラブルがあって、やっとこの場所まで来たんだよ」
この場にいた3つ目の影が口を開いた。
「シュバイツはカナヅチだったんじゃなかったっけ?」
それは少年のような声だった。
「そうだよ、だから死にかけたんだ」
背中にD∴C∴の刺青を持つピアニスト――シュバイツは言った。
教会にいるのは3人。みなD∴C∴のメンバーだった。
髭を生やし体躯の良いがっしりした筋肉質の大柄な男の名はドーガ。パンク風の格好をした赤髪の少年がキラ。タキシードに身を包み、シガレットを噴かしているのがシュバイツだった。
シュバイツは教会を静かに見回し、ステンドグラスの真下にある巨大なパイプオルガンに目をやった。
「さてと、僕がいない間に準備はしっかりとしてくれていたかい?」
キラが指でOKサインを作ってみせる。
「完璧。あとはあんたがスイッチを入れるだけ」
「それでは12時の鐘が鳴るまで待つとしよう」
「12時だなんて言わないで今すぐやろうぜ」
「D∴C∴にとってクリスマスは大切な日であることを忘れてはいけないよ。明日の一番初めに産声をあげることに意味があるんだ」
いったい深夜12時に彼らはなにをしようとしているのか?
それによってなにが起ころうとしているのか?
シュバイツがアリスに送った手紙に書かれていた――今夜は決してホウジュ区には近づいてはいけない。
パイプオルガンの前に座ったシュバイツは考え深げに、天に伸びるパイプを見つめていた。
「破滅の鐘が鳴り終わったとき、ホウジュ区は崩壊する。今夜は人も多いからね、どれくらいの犠牲者が出るか楽しみだ」
まさにシュバイツはD∴C∴の一員だったのだ。
今宵の晩、聖なる夜にホウジュ区でD∴C∴が蠢きだす――闇の叫びをあげながら。
作品名:機械人形アリス零式 作家名:秋月あきら(秋月瑛)