小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

少年A++(プラプラ)

INDEX|8ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 良く本を読む人や、ものを考える人は解っているのだろうけど、〈制度〉と言う怪物が立ちはだかり、黙して語らないのが美徳と勘違いされ、創り上げられた戦争をするための道具にもう一度何も疑問に思わない人々が蹴り落とされているような気がして仕方がないのだ。だからと言って僕はデモの先頭に立つ能力も知力も体力もないけれど…………。
 現在の現実の〈制度〉はそれがなければ社会生活が成り立たないと言う幻想の産物なのだ。別に原始時代にはこんな複雑なものは在り得なかった筈だ。交通事故を全て保険屋さんに任せ、目の前の人間とは出来るだけ接触を避けようとし、『お見舞い』も形だけなのだ。一人暮らしが親族に迷惑を掛けないことと信じ、自分は『気楽』の一文字で社会的な大きな損失などはお構いなしなのだ。それを元の家族制度のように戻そうとするのだが、その変な社会的効率主義が官僚の馬鹿さ加減に思えて、なんだかフランスのような個人の自己完結の数々の個の成立闘争を経験していない日本では、復古趣味にも見えて、『ダサイ』のだ。別に歴史問題ではないけれど、人類は一定の順序を経験しなければ滅ぶことも出来ないように作られているのだと、今の僕は思っている。
滅ぶことも出来ない不自由さを感じられないのは、たぶん、馬鹿だ。
僕の人生では〈制度〉は急にややこしくなって来たように思えて仕方がないのだ。『個』という幻想に縛り付けられ、死の恐怖の奴隷に成り下がり、大切なものを失い続けるのかもしれない。『個』の問題と民主主義が混同されてしまい、民主主義が全てを許すみたいな幻想に陥っているような気がする。多数決が死ねと命令したら自分は焼身自殺でもすると言うのだろうか?みせしめのために?僕には解らない。
 僕らは戦後の民主主義を生きたけれど、押し付けられたものだという意識が何処かに潜(ひそ)んでいるのだ。それでも、それを全体と言う名の嘘八百で否定していくのもまた幻想なのだろう。
 はっ!いけない!説教じみて来てしまった。ドラマを忘れていた。日本人だから素直に『ごめんなさい』と、謝ります。『ごめんなさい』と、言っとけば良いと言う処世術ではなく心から『ごめんなさい』。
もちろん〈君〉?にだ。
 僕が小学校の高学年になった頃、都会的に徐々に町は整備され、それに比例して?僕も女の子を意識するようになっていた。それ以下の年齢では意識と言うまでは行かない共生の在り様の触れ幅の違い程度で、初恋も何も在り得なかった。現在の子からは、かなり『遅れている』と思われるかも知れない。
 それでも初恋の話は照れ臭い物なのだろう。僕も例外ではなく極めて恥ずかしいから、もう一寸別の話をしてから書こうと思う。
そうでないと〈君〉?に失礼な気がする。
 僕の小学校の五年生の時には、犀川の河川敷に朝鮮の人達が住んでいた。ホームレスに近い処まで追い込んだのは日本人であるのは歴史問題でも何でもなく、間違いはなく、僕はあまりに政治的なのでその詳しい話は省くことにする。あくまでも僕の〈生〉?の記憶として置いて欲しい。その方が無事に『常識的』に人生を送れるに違いないから。
 彼らは勝手に河川敷に西瓜(すいか)畑(ばたけ)やとうもろこしの畑を作っていたのだ。日当たりは良く、滅多に冬場以外は災害の少ない金沢という地方都市だから可能だったのかもしれない。彼らの畑は綺麗で、全員で共同管理しているらしく、その仲間意識に僕は少し憧れたものだった。
僕が家でそういう憧れたような話をすると、祖父と祖母は頭から湯気を出して叱ったものだった。他国の特に亜細亜(あじあ)の人は当時の日本人にとっては、蔑視の対象にしなければ、とてもアメリカ的に豊かになることは許されないように思っていた節があった。僕は幼心に叱られても、叱られても、なんだか嘘っぽく聞こえたものだった。負けた国に『常識』もへったくれもあるもんか!と思っていた節が僕にはあるのだ。別に『嘘』を付いている筈もないのだが、それもまた時代の制約なのかも知れなかった。
 僕の教室には朝鮮の子が二、三人いたように記憶している。『差別』などという大層なものは皆無だったように思う。まあ、彼らの立場ではなかったので、解りはしないのだ。
 悪餓鬼には悪餓鬼の原則があり、『弱い者苛(いじ)めは強い者がするものではない』という暗黙の鉄則があったのだ。敗戦国の悔しさに裏打ちされた鉄則に近く、その鉄則は無理矢理な武士道幻想のようなものだったのかもしれない。何時の間にか無くなった日本に悲しい感じもする現在の僕でもあるのだ。
 で、僕らは散々迷った形跡を残しつつ、ある日の夕方、こともあろうに彼らの大事に育てていた西瓜を狙うことを決めたのだった。
決めた張本人は僕で、まあ、とにかく『美味そうだったから』という単純な理由なのだ。決して差別がどうとか、政治体制がどうとかの問題ではなく、小学校の近くの河川敷に西瓜が育てられているのだ。手の届く処に美味そうな西瓜があるのだ。それは当時の金沢では日本人の農家は殆ど作っておらず、これみよがしに美味そうに丸々と大きかったのだ。
 辺りを見廻し、誰も見てはいないだろう隙を狙って友達と三人で西瓜畑に川の流れの方から這いながら前進して行ったのである。川の冷たさが気持ち良く、後押ししてくれているように感じもした。
 素早くもぎ取り、転がして犀川に浮かべた手作りの魚の運搬用の木箱を繋ぎ合わせた幼稚な船に乗せ、それを縄で引きずりながら逃げ去る計画だった。子供の知恵だけれど、計画図とスケジュール表のようなものまで作って、実行に移したのである。
 パーン、パーン、パーンと甲高い音が響いた。三人はお尻の痛さに飛び上がってしまった。それは空気銃から『塩の焼いた塊』を弾丸にして発射されたものが見事に三人の尻に三発で命中したのであった。その痛さで最初は何が起きたのか解らず、慌てたのなんのって…………。
 怒鳴る罵声が昨日の事のように思える。
 「こらあ!悪餓鬼が!俺らから西瓜『まで』盗ろうというのか!」
 僕は西瓜しか狙った覚えがないのだが『まで』って、一体何だろうと一瞬思ったが、力一杯『ごめんなさい』と言って川へ入り水を掻き分け脅威のスピードで逃げた。
 その次の日が登校日で、教室の片隅で悪餓鬼三人が自慢げにその話をしていると、本沢宗一郎という大企業の創始者のような名前の同級生が近寄ってきた。僕は本沢が得意ではなかったが、別に毛嫌いする程の事も無く、
 「どうしたん?。」
 と、自然に訊いていた。
 「おまえら、そんなに西瓜が喰いたかったら喰わしてやろうか?知ってる人が作っているから。」
 本沢はそう言うのである。僕は一瞬たじろぎながら、子供独特の見栄で顔を硬直させたらしい、本沢は続けた。
 「そんなに変な顔するなよ。喰いたいのなら後で俺に付いて来なよ。」
 妙な標準語で、僕が本沢が苦手なのはそのせいだとその時確信したものだった。
 終業の『山のお寺に鐘が鳴る♪』というのを『俺の家には金が無い♪』と言う風に替え歌で馬鹿にしながら学校を後にして悪餓鬼三人は本沢の後ろを付いて行った。