少年A++(プラプラ)
鮎の時期になると解禁日というものも整備されておらず、投げ網だけはしてはならないという変な暗黙の了解がある雰囲気だった。で、僕らは考えに考えた挙句に『ちょん掛け』という漁法の進化版を編み出したものだった。ドライアイスでは鮎の味が損なわれるのも経験値で熟知していた。その『ちょん掛け』の隠し技、それも例のお兄ちゃん連中の悪知恵をしっかり拝借したものだった。つまり漁船の筏のような形をした針を一本の縄に幾つも取り付け、鮎が上がる堰の勢いの良い水の流れの場所で、カウボウイのように縄を回転させ、次から次へと底を漁(あさ)って行ったのだ。面白いように獲れる日があり、そんな日は犀川にあった船の形をした鮎料理の店に買って貰えたのだ。船底をコンコンと叩くと船上からロープにつけられた魚の箱が降りてくるのである。中に鮎を入れ、コンコンと船底を叩くと持ち上げられ、暫くするとお金の入った箱がまた降りて来たのである。僕の記憶では一回も船の形の料亭の人と会話したことは無い。『あ・うんの呼吸』があったのだ。交番の警官も本当に大らかで、鮎を分けてあげると『あんまり派手にやるなよな。危ないからね。』と優しく言ってくれたものだ。禁猟区の設定は、当時は甘かったし、種の保存と言う概念も皆無に等しかった。それほど人口そのものが多くはなかったし、それほど工業化は進んではいなかった。人口は減っていて、一億火の玉には程遠かったのだ。
僕は大人になってからこの話を思い出す度に現代の子らが哀れに思えるのだ。時代が進み、何が良くなって、何を失ったのか?日本を取り戻す前にしっかりと考えないと、子供たちに申し訳ないと思いながら、この世から去ることになるのだろう。なんとも寂しいことではないか。早過ぎる『進化』は、人類の性(さが)なのかもしれないが、ちょっと度が過ぎると、進化では無く、欲望の正当化のように見えるから不思議だ。たぶん、そんなことはないと信じたいけれど、欲望の正当化によって、正当という幻想に押し潰されて、滅んでしまうように思えて仕方がないのだ。
僕がそんな少年A++の日々を送っていた時の話だ。少しだけ大人びた知恵の廻る子であったことは、自分で書くのも恥ずかしいけれど、事実だった。
やくざ屋さんのなんとか組の親分のなんだか解らない会議が開かれるという話を聞き付けると、金になることを覚えてしまい、嵌(はま)った。下足番をするだけで、結構なお金を貰えたのだ。どうしてそんな経緯になったのかを類推すると理解出来るが、とにかく書いて置くと、小学校の登下校時にやくざ屋さんの家が並んでいた旧西の郭の置屋街のど真ん中を通るのが近道だった。其処は子供が通ってはいけないと言われていたが、近道をするしかなかった。僕は運動自体が改善されてきたとは言え、得意ではなく、雪の日や夏の暑い日は、その途中でへばってしまい、良く座り込んだのだ。考えてもみてくれ、身体に自信の皆無の子が四十分を歩くのだ。
当時のやくざ屋さんは、子分になる人材を探すようなリクルートをすることは僕に対しては微塵もなく、ただただ優しかった。よくへばった僕を家の玄関先へ入れてくれて、お茶やアイスクリームをご馳走してくれたのだ。組事務所へ入れられた時は一寸だけ怖かっただけで、異様に大きな神棚が自分を包んでくれる癒しを感じていた。やくざ屋さんの羽振りは今では考えられない程に良かったのである。金沢は東京と大阪の真ん中にあり、微妙な緊張感で比較的安全だった。僕の知る限りでは片町の金劇という劇場にダンプがバックで突っ込んだ抗争事件ぐらいで、後は馬鹿なチンピラが時々パンパンと撃ち合っているぐらいだった。
まあ、今でも自動車のタイヤがパンクするとたまにびっくりはするけれど。
僕らの時代の少年は原則としてあくまでも原則としてだが『おやつ』は自分で確保するものだった。柿はそこら中にあったし、無花果や杏も珍しくはなかった。最高の果物はザクロで、これは貴重なものだった。菜の花の蜜を吸って苦味を貶(けな)すのもツツジの甘みを確認するのも常識だった。
金沢の特殊性と言えばやたらと儀式に饅頭が振舞われたものだった。今ではカタログ・ギフトという味もそっけもない現実を無理矢理押し付けられ、日常になっているが、僕はなんだか貧相な文化のような気がする。悪くはないのだが『効率』が優先されていて、まるで『手にぶら下げて家へ帰ると家族が待ち望んでいる』という文化的な風情(ふぜい)を否定されているみたいに感じる。そう感じる世代がまだ生きていることを楽しまなければ、日本には未来がないような気もしないでもない。
僕は当時の子供としては例外なく、『お葬式狙い』だった。やくざ屋さんの下足番は別格だが、それ以外で、お金を払わないで饅頭が喰えるのである。逃す手はなかった。お参りは大人たちの真似をして手を合わせて、暫くの間、神妙な顔をしていれば良かったのだ。そうすると大人達は『良い子だ。参ってくれて有難う。故人も喜んでいるよ。』などと言ってお菓子を余計目にくれたのだ。一日に葬式の梯子をしたことは何回もある。中原中也の時代とさほど変わりはなかった。
特にやくざ屋さんの親分の葬式は派手で、野町駅から広小路の辺りまで一キロぐらい怖そうな黒服の男達が並び、騒然としたものだった。僕がそれを狙わない道理が何処にあっただろうか?うまく潜り込めば家族全員が二日や三日楽しめるお菓子が貰えたのである。むろん、祖父母と姉は大歓迎だった。僕はそういう悪知恵を何の苦労も無く実行できた。
僕の少年時代は幸せだったのかもしれない。周りの大人達がとにかく優しかったのだ。チンピラの兄ちゃんも決して変態ではなく、たぶん世間的には『どうしようもない奴』だったかも知れないが、子供にはそんなに強圧的でもなかったし、威圧するようなことはなかった。むしろ自分自身が子供であるかのように僕らに接していたように思える。
時代のせいにするのは潔くないと僕は思っている。今のような危険な社会は、そうしなければ喰っていけないようにしてしまった全ての人々の〈成長幻想〉にあるのではないかとさえ、疑えて仕方が無いのである。
壁を自分で幻想を資産にして作り上げ、その壁を壊し続け、壊すことによって生じてしまった新しい壁をまた次の幻想を見つけ出し、理屈を並べ立て、さも人間的であるように語り、その語られた言葉をその指し示す意味だけを後生大事とし、新しい壁を造り、生き抜かなければ世間を渡れない。そうやって生き延びたのが人類なのだろうか?何か違う根本的なものをすっかり忘れることに慣れてか?慣らされてか?解らないけれど、そんな馬鹿を繰り返すのを理性とか科学と言っているような気がして仕方がない。
さて、それが『人間さ』と諦め顔で、知ったか振りをするのは辞めた方が良いと〈君〉?に忠告しておいてあげよう。何かの役には立つだろうから。
僕に言わすと一言で終わってしまうので、気を付けたほうがよかろう。
いわく『くっだらん』。
作品名:少年A++(プラプラ) 作家名:菅原光一