少年A++(プラプラ)
お兄ちゃんの中の一人は、その時の僕の様子を克明に日記に記録していた位だ。
記憶ではなく『記録』は残酷だ。記憶はまだ人間の感情が入り込め曖昧になりそうだけど、記録は人間が生み出した客観性と言う〈化け物〉を抱え込んでいるのだ。僕が『科学』が大嫌いなのもここら辺りに原因がありそうなのだが、その話は辞めておこう。
また、何処かで一悶着が発生するかもしれないから。
大分大きく成長してからその日記を読む機会があり、読むと、耐えられなく自分が可哀相だった。なんと、自分は不憫な子だったのだ。文字にすると信じられない位に現実的で情け容赦なかった。その『記録』を書き残した姉の友人が、さる名古屋の大学の工学部の準教授になったのを聴かされた時、僕は妙に納得したものだった。
雪の日は雪の日で、『おおい遊んであげる』と僕を家から引きずり出し、彼らは大きな歩幅で雪道を飛び廻り、『転んでも痛くないからおまえも飛べ。』なんてことを言うのだ。僕はそれもそうかと騙されているのに気付かずに、飛んだ。話の『ヲチ』は一般的なのかもしれない。僕はまんまと雪の落とし穴に落ちてしまったのである。落とし穴の底にはご丁寧に癇癪(かんしゃく)玉(たま)が仕込まれてあり、落ちた瞬間に物凄い爆発音が数回したのだ。涙が出過ぎてミイラになるのではないかと心配するぐらいに泣いた。その悔しさといったら書かなくても容易に想像できる筈だ。
他ならない、〈君〉?ならばね。
運動神経音痴は悲しい日々を送るしかないのか?などと疑問が頭を占領していて、情けなく自動的に何回も泣いたものだった。
柿などを盗む時は必ず犠牲者で、盗れるだけの仕事を僕に丸投げし、自分たちはさっさと遠ざかっていったのだ。リヤカーの上に置き去りにされた。そんな僕を不憫(ふびん)に思って、盗まれた家の人が『馬鹿だネエ、この柿は渋柿だから、美味そうに見えるんだよ。猿でも食べないよ。』などと言って慰めながらお菓子を呉れたくらいだった。
僕が解放されたのは、姉の同級生たちが中学へ入り、僕が小学校の二年生になった頃で、当たり前のように彼らは『大人しい?』お兄ちゃんになったのだった。さすがにリヤカーで連れまわす時間が無くなったのだろうけれど『意地悪』は、恒常的に繰り返すと癖になり、別の形を思い付くのだった。
彼らは中学生になって、少しだけ科学的な実験をするようになってから、背伸びをした科学の実験を僕を被験者として時々行うようになったのだ。
十円玉にニッケル・メッキをしたものを渡して駄菓子屋で百円玉の代わりに五円のくじを引いて、お釣りを持って来いと命令したりもしたのだ。
『あそこの婆ちゃん目が悪いからバレないよ。』そういう風に囁(ささや)いた。
ある時はピンポン玉を燃やし『火の玉だ』と怖がる僕に投げ付けたり、中学から盗んできた青酸カリで僕の自転車を撫で回し掃除するつもりが腐食させて動けなくして、彼らは笑いあっていた。いわく、『どうせ、おまえはウンチ(運動神経音痴の略)だから自転車はいらないだろう。』そういう風に陰湿に苛めていたのだ。しかし、周りの大人達は彼らのことを、僕を遊ばせてやっている『出来た子たち』に思っていたのだ。
今の時代では大変な苛め問題に発展するかも知れないけれど、時代の制約と言うものは逆に苛められている方を強くさせるのかもしれない。僕は耐え抜いたのだ。
偉いでしょ?
彼らがだんだん忙しく成るにつれて、僕は少し凶暴に成り出したのだ。上からの制約がないと虐げられた人は、変に道を外れそうになるのかも知れない。奴隷は主人が居なくなると野蛮になるのに少し似ているような、違うような。僕の運動音痴は少し改善されていた。連れ回されたお陰かも知れない。お兄ちゃん達のお陰だと考えて置かないと人間不信に陥りそうだ。
『玩具にされた子は幸いだ。自分は絶対に他人を玩具にしないから。』そう考えないと落ち着かない。
犀川(さいがわ)に魚を獲りに行った。中村町小学校のすぐ近くだった。
僕の運動音痴を克服させようと母が思い立ち『校下(こうか)』という金沢で一般的な区域割制をそれまでは猛烈に反対していたのだが、すんなり受け入れたのだ。
僕の家からは野町小学校なら三分で学校へ到達するのに中村町小学校は子供の足で四十分ぐらい掛かる距離にあったのだ。恨み言は日常のように僕の口から出ていたと祖母に聞いたことがある。
姉は野町小学校だったのだ。
登校途中にあった『競馬の馬の飼育施設』の匂いや西の郭の三味線の音には懐かしさが無い訳ではない。けれど、チンピラの罵声や、引退した娼婦の物乞い(ものごい)の姿は、忘れることにしている。
普通の子供の釣りではなく、獲って、お金にするためだった。巧妙にお兄ちゃんたちから方法論を教わった。丁寧に教えられた通りに壁の崩れた痕を見つけ出し、白菊町の冷凍倉庫へ忍び込み、盗んだドライアイスをバケツに詰めて、それを犀川にぶちまけるのである。そうすると魚が窒息して浮き上がって来るのだ。シシリア島のダイナマイト漁法は魚をショックで浮き上がらせるもので、僕らのとは理論的に一致しない。魚は半端な量ではなかった。大人になってからこの話をすると、誰も本気で信じてはくれなかった。今でも誰も信じてはくれそうもないのだ。
つい先日、浅野川で原因不明の川魚の大量死があったが、ドライアイスかもしれない。
僕ら悪餓鬼は、『うぐい』とかの川魚を持っていったバケツに三杯、満タンに拾い集めた。当時、犀川大橋の袂(たもと)の交番の警察官も大らかなもので、獲った魚の分け前を嬉しそうに持ち帰っていたりした。近所には『魚の荷車売り』が毎日来ていた時代だ。当然安く手に入るので買ってくれた。今みたいに食品衛生法がどうとか五月蝿(うるさ)くはなかった。魚の保護などという概念そのものが皆無だった。
作品名:少年A++(プラプラ) 作家名:菅原光一