少年A++(プラプラ)
「ゴンロクは怠け者ではなかったよ。ただ、なんでもないのに褌(ふんどし)をずり上げる下品な癖があっただけだよ。馬鹿の上に怠け者だったら目明しになれなかったよ。ただ真面目過ぎて、下手人の若旦那を捕まえて手柄を立てたかっただけなんだよ。何時の時代でも真面目すぎると間抜けに見えてしまい、戦争で命を落したり、自分の得にもならないのに仕事で命を削ったりするんだ。でもね、ゴンロクは結局最後に若旦那を色街の外(はず)れで追い詰めて、犀川(さいがわ)に叩き落として殺してしまったんだ。若旦那は女郎に変装して飲み屋の商売の真似事をしていたみたいなんだ。それを聴いた時、ヲラは気色悪くて、ご飯を食べられなかったよ。今と違ってそんな時代に昔に女装だよ。おお、考えただけでも気持ち悪い。殺しても手柄は手柄という訳にはいかなかったんだ。あの時代はね。今と違って、意外と場合によっては人様の命は何よりも重んじられたんだよ。結局、ゴンロクは明治の江戸のお偉いさんから何か御褒美(ごほうび)をあげようということになったりはしたけれどね。また、この御褒美が変わっていて、今だったら何の価値も無い『街道の道筋の脇に石碑を建ててやる』というやつで、その石碑の文字がやたらと目立っていて、『ゴンロクここに金物屋の極悪人を女の姿にて捕まえしものなり』っていうから驚いたね。何の有難味(ありがたみ)も無く、今では風に削られて、字も読めなくなっている。ほれっ、そこの六斗(ろくと)ばやしの先の曹同宗のお寺の松の木の根元に残っているんだよ。ゴンロクみたいな忠誠心を持った男が二回の戦争と二回の大戦には沢山死んだね。何やら解らないけれど、ヲラは涙が出てきた。戦争が四回も沢山良い人を殺したんだね。南無阿弥陀仏………………南無阿弥陀仏…………人間の『劫(ごう)欲(よく)』がそんな風に人を殺すのかもしれないねぇ。手柄も『劫欲』に思えるよ。ヲラは随分と余計に長生きしたものだ。南無阿弥陀仏…………。」
僕の幼少のみぎりの薄っすらとした記憶を現代風に無理に翻訳すると、こういう話だったと思う。
老婆の話はそれから延々と戦争の話へ突入し、太平洋戦争時の米軍の機銃掃射の話になると異様なほど具体的で、匂ってきそうなものだった。言葉による記憶よりも五感全部で受けた印象が強いのはよくある話じゃないか。
僕は五感で話を聴いていただけで、理性とか、組み立て易い、子供の浅はかな知恵では説明が付きにくい状態だった。全身で老婆の話を受け止め、子供の中に大人の部分があるとしたら、そいつをフルに利用して、やっとの思いで聴いていたのだった。
老婆の言葉を身体で感じていた、と書いたら理性的な〈君〉?なら容易に想像できるだろう。そして、そういう言葉達が当然のように僕の人格形成に影響したことも理解出来るだろう。他ならない〈君〉?ならばね。
僕は衝撃的な話を子供が聴いてはならない禁断の領域で聴いてしまっていたに違いない。特に老婆の話が戦争の段になると、今の僕では耳を塞ぎたくなるのだろう。しかし、確実に実体験を含んだ話だったのだ。詳しくは気持ちが悪く、僕は少ししか書かないけれど、聖書のこの世の終わりか、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフの監獄での夢を連想した方が早いと思う。
それを文字にしない僕の卑怯を許せるように、〈君〉?は作り上げられている筈だ。社会という怪物によってね。
老婆は太平洋戦争の末期に自分の実家の東京の下谷万年町の近くに住んでいたらしい。空襲を逃れ房総半島にある海辺の親戚の家へ疎開していた時のことだ。東京の空が空襲で赤く染まったのが見えた場所だ。海の上からロッキード・グラマン戦闘機(老婆がはっきり型式を言ったのだ。僕は咄嗟に田宮のプラモデルを連想していた。)が飛んで来て、頭上を一回掠(かす)めて行った。戦闘機は大きく旋回し、戻ってきて頭上に迫り、はっきりと肉眼で確認出来る距離でパイロットが笑いながら機銃掃射のボタンを押したのだ。民間人と確認してのことだろうか?そんなことは定かではない。老婆達の家族は、さして意味も無いのに座布団を被り、小さく蹲(うずくま)った。老婆が顔を上げると血だらけの孫達が断末魔の叫びを空に向かって叫んでいた、と言うのだ。
断末魔の叫びは老婆自身の名前であり、亡くなった孫の母の名前だった。その両方の名前を老婆は何回も声に出してみせ、子供の僕の前では嗚咽(おえつ)に至ってはいけないと判断したかどうかは解らないけれど、『南無阿弥陀仏』と繰り返していた。自らの両親を亡くした話とか友人を亡くした話は聴いたことが無かったわけではないのだが、『孫の死』はどんな想いだったのかと想像すると、亡くなった子と歳の近い幼少の僕でも胸が痛んでいたのだ。
僕は奇妙な切迫感にやられてしまい、呆然と聴いていたのだ。絨毯を敷き詰めるように隙間(すきま)無く銃弾を打ち込まれるのかと、雹(ひょう)が降ってくるのを連想し、逃げ道はなかったろうと悲しくなり恐怖感で一杯になった。
老婆の話には嘘は微塵も感じられず、ただ、老婆の『毛頭(けとう)』と言う言葉に、僕は少し疑問がなかった訳ではないのだ。というのは当時、僕らはアメリカ文化センターの前で日常的にチョコレートを狙っていたからだ。『ギブ・ミー・チョコレート』と言うのは東京辺りでは太平洋戦争の敗戦後まもなくのことだろうが、金沢では内灘闘争の終了の少し後まで当たり前のように密かに少年の間で続いていたのだ。戦利品を勝ち取り、仲間の子供たちに分け与えるのがガキ大将になる一番の出世街道だった。アメリカ文化センターは、当時、主要な都市に米軍が設けた『文明の強制植え付け施設』のようなものだった。日本の畑では糞が肥料に使われていて日本人ごときの糞で出来上がったものを喰ってたまるかと、学校のプールで野菜を栽培していた人達(毛頭=けとう)のすることだ。どれ程の少年・少女たちがプールを恨んだことだろうか。正しかったかどうかは僕の判断する守備範囲を大きく超えているのだろう。
金沢では、まるで大きな皮肉のように最近まで、市役所の裏の柿(かき)の木畑(きばたけ)にあったアメリカ文化センターの建物痕の中に児童館が入っていた。中にあったプラネタリウムの空は異様に落ちてきそうな雰囲気があったのを覚えている。夜になると満天の空に美しい星が綺麗な金沢に?どうして?そんな施設が必要だったのか、子供心に疑問に思ったのを思い出した。
今はなにやら寝付けない悪党が民主主義とやらを武器にして夜中まで電気を点けていることが当たり前になって、夜空の星はみすぼらしい醜態を繰り広げているに過ぎない。
作品名:少年A++(プラプラ) 作家名:菅原光一