少年A++(プラプラ)
僕は早く羊羹を食べたくて、いつも自宅でしたことのないように必死で手拭を手にして拭きまくった。手は自分の眼で見てもみるみる綺麗に白くなり、自分の手ではないように綺麗になった。
僕の口の中に羊羹の甘い味が拡がり、不気味さの代わりに何ともいえない幸せな感覚が襲ってきていた。
老婆は、僕を見て嬉しそうに微笑んだ。
「ごめんな。この近くの和菓子屋のお菓子が売り切れだったから羊羹で勘弁よ。午前中に買いに行けばいいのに、うちの子らは気が利かないから困ってしまう。」
僕はとんでもなく恐縮な気持ちが子供なりに襲ってきていた。『和菓子屋のお菓子!』心の中で確実に叫んでいた。『そんな上等なものはお客様用だ!』繰り返し何度も頭を駆け巡っていた。老婆にとって僕は最上級のお客様だったのだろうか?今となっては確認出来ない。森八の羊羹も上等なお菓子であることは有名で、中でも金箔の入ったものだった。
老婆に『ごめんな』と言われるのが若干不思議ではあったのだ。僕はお金持ちの家の日常を見てしまったような錯覚に陥っていたのだろうか。
老婆は僕の手をひっぱり、充分では無いと思ったらしく、手拭を僕から取り上げて、念入りに手をさらに綺麗にする仕上げにかかった。
「ヲラの子供の頃も、みんな手は汚かったよ。それが当たり前だったさ。なんせ、ヲラが生まれたのは江戸時代だからね。」
僕はびっくりして腰が抜けそうだった。『江戸時代』と言われると、当時あったNHKテレビの『ジャスチャー』で確認した音の無い世界の話か、『冒険王』という漫画雑誌で見た世界ではないか!現在のように様々なメディアで時間軸を観る機会が多い時代ではなく、情報の量は現在から覗くと限りなくゼロに近かった。
咄嗟に僕は反応していた。
「え、江戸………………?。」
老婆は楽しそうに僕の顔を覗き込んで微笑んでいた。今となっては、老婆がアルツハイマーか何かで記憶が飛んでいるのかも知れない、と、類推出来そうだが、当時のしかも子供には考えられなかった。むろん『ボケ』などとお年寄りに向かって考えることも習慣的になかった。
『江戸生まれの子供の手もカエル腐った。』
というようなことをしきりに考え始め、なんだか次第に老婆が親しい人のように思えてきた。森八の羊羹のなんとも例えようがない美味さがそれに追い討ちをかけたのかも知れない。
金沢では年取った女の人は自分の事を『ワテ』というのだが、老婆ははっきり『ヲラ』と言っていた。僕は何故だか『ワテ』という呼称(こしょう)は子供心に無愛想な汚らしい言葉のように感じていたのだ。老婆の言葉は完全な金沢弁ではなかった。
老婆には話し相手が見付かった嬉しさがあったようで、ニコニコ笑いながら僕にゆっくりとした口調で話し出した。
「昔ね、明治になってからだけどね。広小路のところで辻斬りがあってね。お江戸や文明開化も場所によって時間がずれて、日本中が一遍に変わったわけじゃないけどね。警官になった目明(めあか)しに警棒が行き渡らなかったから十手をもって関所が閉まる前の時間によくやって来たものさ。関所が壊されたのは日清戦争の後らしいけどね。なんでもね、辻斬りは大江町(おおみちょう)の金物屋の若旦那で、自分の研いだ刃物の切れ味を試したかったそうで、殿様の試し切りでもないのに変な男だったらしいよ。職人になれなかった職人ってのは、気が変になるのかね。悔しいのかね。ものにならなかったことがね。何処へ逃げたものやら解らなくて、誰かがお金を貰って、匿(かくま)っていやしないかと、訪ね歩いたんだよ。」
僕は自分の祖父が大好きな寄席のラジオ中継を聞いているような錯覚に陥っていた。『辻斬り』?『目明し』?『関所』?『若旦那』?『匿って』?聞いた事はあり、薄々何を意味するのか知らないことはなかった。それでも老婆の語り方は実質的で、まるで自分が経験したことのような現実感があった。
僕は大人になって、そんな事件が広小路の辺りで本当にあったらしいことを金沢の歴史を紹介する本で知ってしまって、冷や汗が止まらなかったものだ。
老婆は話が終わらなくなり、僕はさぞかし興味深い顔をしていたに違いないのだろう。目明しのゴンロクが非常に馬鹿で、座敷牢の中の『狐憑き』まで疑って、若旦那が変装していると勘違いし、座敷牢の中まで入って、中に入ると自動的に締まる鍵のことも知らず、家の人が朝食を持って来るまで一晩『狐憑き』と一緒に過ごす羽目に陥り、出てきた時は、『狐憑き』に顔の両目の所を殴られて、『狸』になって出てきた。などと落語のような話を続けていった。
僕は座敷牢は他の家でも見たことがある。その中で蠢(うごめ)いている人影も見たことがあるのだ。当時の金沢の旧家には残っていたと記憶している。観光地化するのには不都合な記憶なのかもしれない。
『大昔の神社の高床は糞尿処理のために設けてあり、神社の床は処理のために床板に隙間が空けてある。神社の狐は本当は狐憑きになってしまった人の象徴で、お供え物は村人が狐憑きを養うものだった。』
そんな話を僕を怖がらせるために祖父がもっともらしく僕に植え付けていた。
『座敷牢の用途は犯罪者だけではなく、狐憑きを保護?するためのものだった。』
それは祖母の言い聞かせだ。『狐憑き』が何を意味するかは、ご想像に任せなければ面白くない?でしょ?
ゴンロクのひょうきんな仕草を真似るかのように老婆は様々な格好をして長々と喋り続けた。
作品名:少年A++(プラプラ) 作家名:菅原光一