短編集38(過去作品)
小説を書き始めたことを小夜子に話す。
「あら、素晴らしいわ。文章が書けるなんて尊敬しちゃう。私のことも書いてほしいわ」
という言葉が返ってくる。
まるでそばにいて話をしているようだ。有頂天になっているのが自分でも分かっている。だが、小夜子のことを何も知らない。そのことを思うと、
――やっぱりネットなんだ――
と思い知らされる。
それでも、小夜子がいるから小説だって書いていける。美恵子への思いが次第に小夜子に傾倒していくようで怖いくせに、今の自分は目先のことしか考えられないのだ。
――小夜子にとって僕は、僕にとって小夜子とは何なのだろう――
と思っては、次の瞬間にその時考えたことを打ち消す自分がいた。
夢の中に出てくるのは、美恵子だった。それも知り合った頃の思い出、
――やっぱり本音を夢に見てしまうんだな――
グッショリと掻いた汗を拭き、まだ眠い目をこすりながら一人考えている。いくら小説で幾分かストレスを解消できるとはいえ、離婚や仕事のストレスはそう簡単に拭えるものではない。
一日の中で、好きな時間と嫌いな時間を言いなさいと聞かれれば迷わず、
「好きな時間が寝る前、嫌いな時間は起きる時」
と答えるだろう。
現実逃避できる時間と引き戻される時間、これは幸一に限らず皆同じだ。
ある日、起きることができないほど身体に痛みを感じた。腰が痛く、動けない状態だったので、会社に電話を入れて休むことにした。その足で病院へ行ったのだが、歩くことができないので、タクシーを使った。
――嫌な予感がするな――
ここまで痛い思いをするというのは今までになかったことだ。額から玉のような汗が吹き出してくるのが分かる。
――ストレスからだろうな――
という直感に間違いはなかった。
どうやら胆石が溜まっているようだ。手術の必要はないが、安静のため、入院しなければならない。
「会社の方は心配しなくてもいいから」
と上司は言ってくれたが、なかなか精神的に安らかになることはない。見えない責任感のようなものがあって、上司の暖かい言葉までが無言のプレッシャーに思えてくるのだ。
だが、いくら急いても病に臥していてはどうにもならない。上司や医者の言うとおりに安静にしているしかなかった。
胆石の原因はやはりストレスからである。今までストレスを感じても身体を壊すことがなかったので、入院などというのは他人事だった。仕事が自分のキャパシティを超えていて、それに耐え切れずに身体を壊す連中を今までに何人も見てきたが、
――羨ましい――
と感じるのは、完全に他人事だったからに違いない。自分がその立場にならなければ、健康が一番いいということに気がつかなかっただろう。
もう一つ気になることがある。こっちの方が幸一にとっては深刻かも知れない。
――病院ではネットは使えない――
医療器具が誤作動する恐れのあるネット関係は病院では禁止されている。ということは入院中小夜子とは会えないのだ。
しかも幸一が入院していることを小夜子は知らない。
――心配していないだろうか――
気がかりで仕方がない。
余計な心配かも知れないが、それだけ病気というのは、気分を滅入らせる。「病は気から」というではないか、幸一も少し気弱になっていることを分かっていた。
いつも窓の外ばかりを見ている。だいぶ落ちてしまった黄色くなった葉を、風が揺らしている。窓を閉め切っているので聞こえないが、ビュービューという音が激しく、表は結構風が強い。
時間が経つのがこれほど遅いというのを経験したのは、入院して初めて知った。
――もう一時間は経っただろう――
と思って時計を見ると、まだ五分も経っていなかったりする。それも同じところばかりを集中して見ているからだろう。入院するまでは、絶えずまわりを均等に、そしてしっかりと見渡さなければいけなかったので、緊張の連続だった。
仕事中、時間が経つのが早いのは流れが速いからだった。ある一点からある一点を見た時、結構時間が経っていたように思う。それも仕事の内容が濃いからに違いない。何も考えず、動くことさえできないベッドの上で漠然と表を見ているだけなら時間が経つのが遅いのも納得できる。
病院のベッドから動けないのは、一日に数本点滴を打つからだ。一本打つだけで二時間近く掛かるのだから、ほとんど点滴の針が刺さっている状態である。
入院してから数日が経って、少しずつよくなってきているようだ。
「なかなか順調ですね。これならずっと安静にしている必要もなさそうだね」
と医者が話してくれた。
「退院してもよろしいのですか?」
「いや、退院はもう少し待ってもらえますか。近いうちに精密検査を行いますので、その結果次第ですね。でも、ずっと点滴を打ってばかりいなくてもいいということですよ」
医者の表情は穏やかだ。経過は良好という言葉をそのまま信じてもいいらしい。入院して数日、ある意味リフレッシュできたともいえるだろう。
ネットを使ってはいけないという制限のもと、パソコンの持ち込みが許された。
ノートパソコンの小さいものなので、それほど邪魔になるものではない。もちろん、趣味の小説を書くためだが、今なら結構書けるような気がしていた。
小説を書くには自分の世界に入り込むことが必要である。自分の世界を作ることができなければ書くことができないと言っても過言ではない。
最初に小説を書けるようになるまでに、いろいろ試してみた。最初から小説がスラスラと書けるわけもなく、どのようにすれば書けるようになるか、試行錯誤を繰り返したものだ。
机に向って原稿用紙を見下ろしていた。最初の数行を書いただけで後が続かない。
当然といえば当然で、結論だけを書いてしまっては、そこから先が続くはずもない。あらすじよりも簡単な内容になってしまう。
――まずは風景描写から書けるようにならないと――
と感じた。それには机に座って原稿用紙と睨めっこしていても書けるはずはない。少なくとも環境を変えなければだめだ。
まずは図書館にある勉強室へ赴いた。窓際に座り、表を見ながら書くことを考えた。まわりの、集中して勉強している姿をみれば自分も集中できると考えたのだ。
だが、却って逆効果だったようだ。幸一という男はそれほど集中力のある方ではない。すぐに緊張が解けてしまって、中座する回数が増えてくる。図書館では駄目だった。
それではということで、喫茶店に場所を変えた。これは馴染みの喫茶店では駄目で、
――執筆するための自分の場所――
として使える場所でなければいけない。
表が大通りになっていて、人や車の往来が激しいところ、窓際に座って見ているだけで情景が文章になっていく。
――これならできそうだ――
原稿用紙をノートに変え、縦書きではなく、横書きにする。まるでメモをしているような感覚だ。その方が変な緊張感もなく書けるので、自分の世界にも入りやすい。これが文章を書けるようになったきっかけといってもいいだろう。
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次