Blackbird
神崎はチェイサーをUターンさせて、シフトノブをニュートラルに戻した。今すぐ、ここから出て行くべきなのか? 工藤は確かにそう言った。この一連の騒動に理屈を見出すことができないなら、後は直感に頼る以外ない。それは分かっている。だからこそ、出て行くのが正しいことだとは思えない。神崎はハンドルを強く握り締めたまま、ミラー越しに工場を振り返った。花火のような銃声が一発聞こえたとき、携帯電話が鳴った。
「神崎くん」
苅野の声が震えている。神崎は要件を聞く前に言った。
「大丈夫ですか?」
「私はね……。血液検査の結果が出たんだけど」
嫌な予感がした。神崎はチェイサーから降りると、二二口径が突っ込まれたリュックサックをスカイラインから取り出した。工場の方向を見ながら、先を促した。
「何か、分かったんですか?」
「私の作った薬が、混ざってた」
神崎は思わずチェイサーの車体にもたれかかった。足が言うことを聞かない。サラリーマン時代から着てきた安物のスーツが息苦しく感じてネクタイを緩めると、苅野が言った。
「骨を折ってから、痛み止め用に渡してたんだ」
立て続けに銃声が鳴った。神崎は小さく何度もうなずいた。
「工藤さんですか」
「誰も信じないで。私はここを守るから」
返事の代わりに小さく息をつくと、神崎は電話を切った。二二口径のグリップでチェイサーのテールライトを割ると、電球を全て抜いた。草むらを割るようにチェイサーの鼻を突っ込み、サイドミラーにかろうじて映る裏口を確認する。クラッチを踏み込み、リバースに入れた状態でサイドブレーキを上げる。この暗闇で排気ガスに気づくことはないだろう。右手に二二口径を握り締めて、理由を考える。
工藤が使っていた鎮痛剤と同じものが、相手側の組織に捕まっていた女の血から出た。
銃声が鳴り、思考が分断される。神崎はミラーに視線を向けた。影が動いている。左右によろめいているが、幾度となく後ろを振り返りながら、完全に姿を現した。距離は十五メートル。神崎はゆっくりとサイドブレーキを下ろした。ちょうど車までの中間地点に来たところで、それが工藤ではないことに気づいた。神崎はアクセルを踏み込んでクラッチを離した。
真っ暗闇の中から飛び出したチェイサーに跳ね飛ばされた男は、数メートル地面を転がり、壁のすぐ手前で死んだ。神崎はチェイサーから降り、仰向けに転がった男の死体をまたいで、二二口径を右手に持った。
裏口から入ると、神崎を追い返すように硝煙の匂いが押し寄せた。神崎は二二口径を真っ直ぐ構えたまま工場の中を歩き、かつて見張りが休憩に使っていた事務所の前に、人影を見つけた。
「工藤さん」
神崎は二二口径を向けたまま歩み寄った。空になったままの四五口径を右手に持った工藤は、明後日の方向を向いたまま、呆れたように首を横に振った。神崎は銃口を工藤に向けたまま、工藤の視線を追った。二人が頭を粉々に砕かれて、うつ伏せに倒れている。その後ろにもう一人が、仰向けになって倒れていた。
工藤は事務所の前に置かれたパイプ椅子に腰掛けると、言った。
「向こう側についた奴が、俺に何の用だ」
「何を言ってるんです?」
神崎は銃口を少しだけ下げた。工藤の顔がはっきりと見えた。
「樋口とは、仲良くできそうか?」
工藤はそう言って、四五口径を床に放った。神崎はその意味を頭の中で結びつけて、呟いた。
「あの樋口ってのは……」
「新しい組織お抱えの、武器商人だ。あいつと取引したお前は、もう向こう側の人間なんだ」
工藤は、神崎の言葉を補った。神崎は銃口を完全に下げて、言った。
「どうして……、こんなことをしたんです。予定通りだって言ってたじゃないですか」
坂野の代わりに樋口が待っているということを、工藤は知っていたはずだ。神崎は二二口径の安全装置を起こした。工藤は言った。
「俺とお前が、最後の二人なんだ」
神崎はその場に立ち尽くした。周りの空気が急激に冷え切って、自分の居場所を一気に締め付けたような気がした。
「垂水も、他の連中も、みんな新しい組織に移った。俺とお前だけが、最後まで頑固に居座ってたんだ。俺たちの組織はもう、終わりなんだよ」
工藤は笑った。神崎は首を横に振った。死体が転がる先を見て、呟いた。
「二人なら、もっと簡単に追い返せましたよ」
神崎が呟くと、工藤はうなずいた。
「そうだろうな。でも古野には、俺一人でやるって言った」
「どうして、一緒に来ないんですか」
神崎は食いしばった歯をどうにかこじ開けて、言った。工藤はしかめっ面を作ると、そのまま器用に笑った。
「あんな連中と? 死んでもごめんだね」
工藤はネクタイを緩めると、血で光る床に投げ捨てた。スーツのポケットから抜いたスカイラインの鍵を投げた。神崎はそれを受け取ると、呟いた。
「あの女の血から、工藤さんの薬が出たんです」
「部屋に踏み込んだとき、起きてたんだ。顔を見られた」
工藤が言うのと同時に、神崎は思い出していた。四年前に、目の前から逸れたままになった銃口。工藤は同じように、女に向けて引き金を引くのをやめたのだ。
「だから、薬を飲ませたんですか」
工藤はうなずいた。自分自身に呆れたように、宙を向いた。
「天秤って呼んでた奴に、言ってやりたいよ。そんな大層なあだ名、俺には百年早いってな」
床で光る血に、新たな血が混ざり始めていた。神崎は、工藤のカッターシャツの右半分が血で真っ赤に染まっていることに気づいた。
「お前は、新しい世代の人間だ。しがらみには縛られるな」
工藤はそう言って、顔をしかめた。神崎は駆け寄ると、工藤のスーツを開いた。散弾銃の銃創。繊維と筋肉がごちゃ混ぜになって、赤い塊になっていた。工藤は偶然思い出したように、呟いた。
「あの子は俺に、殺してくれって言った」
工藤が失血死するまで、神崎は手を握り続けた。
苅野のところまで、スカイラインを走らせる。仕事で用意される車。新しい組織に、新しいルール。今までに関わりのあった人間は、皆そこで待っている。神崎はそれを言葉半分にしか信じなかった。苅野の住む一軒家は、病院と家が一体になったような構造で、付近の道路に防犯カメラはない。新しい組織が、そんな有利な立地の建物を見過ごすわけがない。苅野は『ここを守る』と言ったが、古い散弾銃が一挺あるだけでは到底守りきれない。