Blackbird
どうして、あんなことを言ったのか、自分でも分からない。考えるよりも前に、咄嗟に出た言葉だった。大型車が橋の上を通るたびに、橋脚を通じて地面が揺れるのが分かる。この状況で家にはいられないと判断し、ほとんど存在しない私物をリュックサックに入れて、アテンザのトランクに詰め込んだ。その選択自体は、限りなく正解に近いと、神崎は確信していた。問題は、この行動が周囲の人間からどのように見えるのかということ。
神崎は思った。逃げるつもりはない。そもそも状況が掴めないのだから、どの方向に進むことが『逃げる』ことになるかも、分からないのだ。なかなか途絶えない着信音に、神崎は諦めたように通話ボタンを押した。苅野が少し生気を取り戻した声で言った。
「起きたよ」
すぐに意味が分かった。ネックレスの女が目を覚ましたのだ。神崎はアテンザの座席を起こしながら、言った。
「大丈夫なんですか?」
「どうだろ。一応、血液検査をしてるけど。まだ何とも言えないな」
神崎は、別の着信が入っていることに気づいて、携帯電話を耳から離した。割り込んでいる着信は、古野。
「ちょっと、違う着信が入りました」
「待って。どっかで適当に服買ってきてくれない? 私の古着しかないんだ」
苅野が慌てたように早口で言った。神崎は笑った。
「顔を見られたら困るんですが」
「私は外せないから、車庫にでも置いといて」
神崎は返事の代わりにうなずくと、古野からの電話を取った。しばらく沈黙が流れた後、にらめっこに負けたように、古野が言った。
「今晩、鉢巻に報復が来るって噂だ」
解体工場の一つ。見張り番をしたこともあった。こじんまりとした工場跡で、中には車と人を解体できる設備が一式揃っている。他にもそういう場所はあるが、鉢巻は最も大規模な施設だ。神崎は言った。
「返り討ちですか?」
「お前は話が早くていいよ」
聞いたことのない言い回し。神崎はダッシュボードを開けた。こちら側にグリップが向いた状態で、二二口径が収まっている。
「人はいませんよ。見張りを殺して何になるんです」
神崎が言うと、古野は笑った。
「俺が知るかよ。連中の目的はおそらく、設備だろうな。缶詰まで車と銃を取りに行け。日付が変わるまでに、鉢巻で工藤と合流しろ」
今までに、うんざりするぐらいに繰り返したやり取り。車と銃を取りに行く。その車で現場まで移動し、その銃で相手を殺す。工藤は今までとは違うと言ったが、神崎には正直、その違いが分からなかった。引き金を引く『手』であることには、変わりはない。
工藤に電話をかけて段取りを説明すると、工藤は言った。
「それで合ってるよ。鉢巻で待ってる」
短いやり取りが終わり、神崎は決心がついたように、シートベルトを締めた。
缶詰工場にたどり着くまでの林道は、夜になると真っ暗になる。ほとんどの取引は朝方か、昼だった。神崎は一速で上り坂を進めながら、思った。自分は、一度死んだ男のはずだと。
『天秤』と呼ばれた男の気まぐれで延長された、死後の世界のような人生を歩んでいる。すでに半分は死んだような人間が、何を怖がっているのか。
林道を途中にある待避所にたどり着いたとき、神崎はアテンザをUターンさせてヘッドライトを消した。目はすぐには慣れず、エンジン音だけが耳に届く。目が慣れてきて、うっすらと周囲を取り囲む雑木林が姿を現した。限りなく黒に近い青色で塗られた空に真っ黒な木のシルエットが浮かんで、神崎はエンジンを止めた。二二口径をリュックサックのサイドポケットに突っ込むと、アテンザから降りて歩き始めた。数百メートルで缶詰工場のシルエットが見えてくる。
工場の角から広場を覗き込んだ神崎は、停まっている二台の車に目を凝らせた。一台は仕事用、もう一台は移動用。この手続きも、今までと変わらない。
神崎が歩いていくと、片方の車のヘッドライトが短くパッシングした。後部座席から降りてきた男が坂野ではないことに気づいた神崎は、リュックサックから二二口径を抜いた。歩く速度を全く緩めることなく、数メートルの距離まで詰め寄った神崎は、男に銃口を向けた。黙っていると、小柄な禿げ頭の男はおどけたように両手を上げた。
「物騒だなおい」
「坂野は?」
神崎が言うと、男はピエロのように肩をすくめた。ぎょろりとした目に、短い手足。漫画から抜け出したような派手な表情。
「誰それ? 俺は樋口っていうんだ」
樋口はスカイラインの半開きになったトランクを太い指で指差した。
「道具は入ってるよ。こうやってやるんだろ? 違うの?」
神崎がその場から動かないと、樋口は痺れを切らせたようにトランクを何度も指差した。
「あんた、いつもこうやってやってんだろ?」
神崎は樋口から視線を逸らせた。運転席の男は、顔面を真っ青にしてこちらを見ている。神崎は安全装置を下ろした。微かな金属音に、樋口は表情を険しく固めると、首を横に振った。
「話が違うぞ」
「それはお互い様ですよ」
神崎は樋口から視線を逸らすことなく、スカイラインのトランクを開けた。散弾銃が一挺と、拳銃が一挺。手続きは今まで通り。
「あんた、どうやって来たの?」
樋口が言った。神崎は林道の方向を指差した。
「待避所から歩いてきました」
「用心深いにもほどがあるぜ。またな」
樋口は短い手を振ると、移動用の車に乗り込んで走り去った。神崎はトランクの中に視線を戻した。十八インチ銃身のレミントン八七○マリーンマグナムと、ダブルオーが一箱。拳銃はスプリングフィールドアーモリー製の一九一一。弾倉は四本あった。四ドアセダンのスカイラインは九八年型のGTターボで、いかにも坂野が選びそうな代物。ただ、現れたのが樋口という別の男だっただけで、何も違わないはずだった。居心地の悪さを拭うように、神崎はスカイラインの助手席にリュックサックを放った。
鉢巻の裏口に回ると、チェイサーが停まっているのが見えた。そこも、打ち合わせ通り。運転席から降りてきた工藤が言った。
「あまり時間がない」
神崎はスカイラインの運転席から降りると、言った。
「何が起きてるんです」
「キーを寄越せ」
工藤は呟くように言った。神崎は、スカイラインのキーのことだということに気づいて、首をかしげた。
「この車のですか?」
「そうだ、早く」
工藤は手で促したが、神崎は首を横に振った。
「工藤さん、あの樋口ってのは、誰なんです」
「早くしろ!」
工藤が声を荒げるのを聞いたのは、初めてだった。神崎は諦めたように一歩下がった。工藤はスカイラインのエンジンを切ってキーを抜き、トランクを開けながら言った。
「俺の車でここから出るんだ」
チェイサーの鍵を神崎に握らせ、四五口径をベルトに挟んだ工藤は空いた手で弾倉を掴み取り、返事を待たずに鉢巻の裏口から中へと入り込んだ。神崎はチェイサーの運転席に座ると、エンジンをかけた。出口に鼻を向けておくのがルールだったはずだ。スカイラインは真逆の方向を向いている。