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短編集36

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 自分の部屋にハト時計、まるで最初からついていたかのようにシックリくるのは気のせいだろうか。
 思わずハト時計の裏を捲ってみたくなる。そこには焦げたような痕がついていた。指でこすると痕は取れる。埃が溜まっているだけだ。
――そんなに以前からあったわけじゃないんだけどな――
 一年でそこまでになるというのも珍しい。もっと昔からあったように思えるくらいだ。
 そういえば秀則が最初にこの部屋を訪れた時の表情が印象的だった。一度ゆっくりと部屋を見渡して、安心したかのようにその後は、もう部屋を気にすることはなかった。
 ハト時計が鳴っても、他の男性は皆ビックリして、その瞬間に表情まで変わったにもかかわらず、秀則だけはまったく表情を変えることはなかった。
 余裕のある顔を最初から最後まで見せていて、その表情には哀れみさえ感じるほどだった。
――私に対する哀れみなのかしら――
 と少し変な気もしたが、彼の腕の中に委ねられた心と身体は、ただその時の快感に酔っているだけだった。余計なことを考えないのは、気持ちが満たされている証拠でもあったのだ。
――もし、自分に対して哀れみのような表情があったのだとすれば、自信過剰になっている気持ちへの戒めかも知れない――
 と感じた。秀則と会っている時の千恵子はいつも自信過剰だった。自信がない時に決して秀則に会いたいとは思わないし、彼も千恵子の前に姿を現わすことはなかった。
 しばらく秀則がこの部屋に来ることがなかったのは、千恵子が少し自分に自信を失いかけていたからだった。しかし、自信喪失も周期的なことだと分かっているので、それほど心配していない。一ヶ月もすればまた自分に自信を取り戻し、何でもできるかも知れないと思えるほどの過剰さが戻ってきた。
 すると、秀則の方から千恵子に近づいてくる。
 彼からの電話を待ちわびている自分に気付いた千恵子は、その瞬間掛かってきた電話に驚きとトキメキを感じながら、さらに自信過剰が高まってくる気がしていた。
「また君の部屋に行ってみたいんだけど、いいかい?」
「ええ、お待ちしています」
 会話はあまり長いものではなかったが、声を聞いた瞬間、まるで昨日まで彼がこの部屋に一緒にいたような気持ちになった。一ヶ月以上も会っていなかったなど信じられないほどである。
 部屋の中に流れるクラシック。電話を切ってから酔いしれるように聞いていたが、それを邪魔するかのようにハト時計の音が聞こえる。
「ああ、もうこんな時間、そろそろ寝る時間だわ」
 と独り言を言って、クラシックのリズムになぜか合っているハト時計の音を聞いていた。
 クラシックはピアノのメロディ、FMラジオから流れてくるその音楽はよく聴く曲なんだが、曲名を思い出せない。
――何だったかな――
 と感じながら聴いていると、ハト時計の音とどちらに集中していいのか分からなくなってくる。
「ポッポ、ポッポ……」
 静かな部屋にこだまするハト時計の音とは微妙に違っていた。いつものように部屋に響いているわけではないが、音はいつもより大きく感じるから不思議である。錯覚なのだろうか、音楽がピアノのメロディということで、相乗効果があるのかも知れない。
 ハト時計の音が次第に早く感じられてきた。
 最初はゆっくり、それが三回目にハトが出てくるあたりから少し早く感じられるようになった。今までにはなかったことである。
 というよりも、ハトの出てくる間隔や回数を気にしたことなど今までに一度もなかった。
 最初に買ってきた時でもそうだった。
 部屋にシックリきていて、
――まるで前からあったようだわ――
 と感じていたのを思い出した。それだけ違和感がなかったということだろうが、ハト時計に対しての執着は他のものよりもあった。
 何しろ、この部屋にあるものでも大きな部類に入るからである。特に壁に掛けている絵にも凝っていたので数枚掛けているが、
――絵画とハト時計――
 何ともいえないアンバランスさが壁に掛けてある絵に立体感を与えるように思えるのだった。
 秀則が来る日が近づいてきた。
 気持ちはウキウキ、部屋を綺麗にしておこうと思うのは女性として同然のことである。
 壁に掛けてある絵を少し移動させてみた。ハト時計も少し移動させようと思い、壁から外して黒くなった部分を洗剤で綺麗にしようと、一生懸命に拭いてみる。
 しかしどうしたことだろう。いくら強くこすっても、埃は取れない。指で掬うと少しは取れるのだが、そこまでだ。指で掬った場所が最初はハッキリと分かったのに、しばらくすると目立たなくなっている。まるでトカゲの尻尾のように蘇生能力があるかのようである。
「おかしいわね」
 何度やっても同じである。その日だけがおかしいのかと思って次の日の朝、起きてから拭いてみるが同じことだった。
 おかしいという気持ちを持ったまま、ハト時計を元に戻し、今までどおりにしてみる。
 すると、違和感はまったくなくなり、壁に掛かった絵画も最初のような立体感を取り戻していた。
 絵画には風景画、そして人物画がある。
 人物画には男女が描かれていて、女性は半分下着姿の色っぽさを感じさせる。女性を後ろから包み込むように抱きしめている男性のその表情には憎らしいほどの余裕が感じられ、女性の表情には、男にすべてを任せることで恍惚の表情を保てるような満足感が見て取れる。絵画にそれほど造詣の深くない千恵子がこの絵を選んだのは、
――私にこれほど絵を見るセンスがあったなんて――
 と感じさせるほどだった。
 部屋全体が浮かび上がったかのように見える。この部屋に一人だけいるのがもったいなくさえ感じられた。
――この部屋で、以前住んでいた人は夫婦だったのかも知れないわ――
 と部屋が急に暖かいものに感じられ、そこには生活の匂いがあった。男の顔を思い浮かべるとその顔に見覚えがあり、よく見ると秀則の顔であった。それも野性味溢れる顔で、男らしいというよりも、さらに苦みばしったような顔になっていた。
――まるで別人のようだわ――
 一緒にいる女性は大人しく、まるでお人形さんのようである。
――私とは全然違う感じだわ――
 と感じたが、相手の女性の瞳を見つめていると、吸い込まれそうに感じられる。
――この瞳は――
 見つめられた覚えのある瞳にビックリしてしまった。その瞳はまさしく秀則の瞳である。女性っぽさがある秀則の中に女性がいるように思っても、すぐに男の臭いを感じて打ち消してきた。だが、今想像しているその顔は、まさしく秀則と一緒に住んでいる女性である。
――この部屋で何かがあったんだ――
 途端に鉄分を含んだ臭いを感じた。下半身に重みを感じると、その臭いが何であるか、女性にしか分からないものであることに気付いた。
――秀則は、自分に自信を取り戻させるために現れたのかしら――
 と感じたが、それだけではないようだ。この部屋は彼にとって供養の部屋。永遠に女性を大切に思う部屋である。だが、それも彼にとってのせめてもの罪滅ぼしであった。
 ハト時計のハトはすべてを見ていたのかも知れない。透き通った部分のない瞳の奥は真っ赤に淀んでいるように思えた。
「ポッポ、ポッポ……」
作品名:短編集36 作家名:森本晃次