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夕霧

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9 妻の実家


「お父さん、いろいろとごめんなさい」
 秋月家のリビング――二十畳ほどある空間には、豪奢な家具が配置されている。その高級なソファーで、新聞を広げている哲次を見つけ、幸子は父の前に座った。
「お前が謝ることではない。向こうの言い分がおかしいんだ」
 
 昨日、哲次が稲村繊維を訪れて徳次郎と話し合ってきたことを、幸子はつい先程涼介から聞いた。やはり、和やかな話し合いには程遠かったらしい。当然と言えば当然だろう。だが出向の形とはいえ、秋本機械に移る了解を得てきてくれたという。涼介は舅に嫌な思いをさせたことを幸子に何度も詫びた。おそらく哲次にはもっと詫びたに違いない。
 
 幸子の位置から父の肩越しに、奥の趣の深い和室を通して、手入れの行き届いた日本庭園が広がっているのが見える。
「涼介さんは、うちの会社へ移ることができるのね?」
「ああ、そうなるだろう。住まいも離れを使うといい」
 母屋の庭園のその先に、かつて哲次の両親が隠居後に住んでいた離れがあった。ここからでは見えないが、幸子はその方角の庭に目を向け、礼を述べた。
「ありがとうお父さん、お兄さんたちにはこのこと……」
「お前が心配しないでいい。雄一たちには俺から話す。
 そもそも、おまえをあの家に嫁がせたのは私だ。すまなかったな……
 一代であれほどの財を成す人物だから変わり者だとは思っていたが、あそこまで常識はずれだとは思わなかった。今にして思えば、稲村繊維と親戚関係になれるという意識が先に立ち、私の目も曇っていたのだろう。おまえにはかわいそうなことをした」
「そんなこと言わないで、お父さん。私は今回のことがあるまで結婚生活に不満なんてなかったのよ。
 広い邸宅だから、お義父様に会うことはあまりなかったし、それにたまにお会いしても、私には普通の嫁として接して下さったわ。だから、私はみんなが言うほどあのお義父様を怖いと思ったこともなかったのよ。太郎が生まれた時もそれは喜んでくださって、かわいがってもらったし」
「それは、太郎が大切な跡継ぎだからだ。女だったら違っていただろう」
「それはそうかもしれいけど……でもね、お父さん、涼介は私にとって百点満点の夫よ。あ、父親に逆らえない所を除けばね。でも、あのお義父様に逆らえっていう方が無理な話でしょ?
 だから、涼介を結婚相手に選んでくれたこと、私とても感謝しているの」
「そう言ってくれると、私も気持ちが楽になる。これからはこの家で涼介君と仲良く暮らすといい。二人でも三人でも子どもを産んでな」
「ま、お父さんたら……」
 
 一方、稲村邸では――
「なんだって!! 本気で言っているのか、父さん!」
「当たり前だ、こんな時に冗談など言うはずがない! おまえが出て行くなら太郎を置いていけ! わかったな」
「子どもを育てる権利は親にある。いくら横暴な父さんでも、これだけはどうにもできない」
「つべこべ言わずに、太郎を置いて、さっさと出て行け!」
「父さん、息子として顔を合わすのはこれが最後だ! 育ててもらった礼だけは言うよ。さよなら」
(太郎を置いていくはずがないのはわかっとる。こっちだってあんな幼児では後継者として育つまでわしは見届けられない。
 やはり、あの子だ!
 どんな暮らしをしているか知らぬが、稲村繊維の社長より恵まれた環境などあるはずがない。知らせてやったら、自分の運命をどんなに喜ぶだろう。早く見つけ出してやらねば。
 それにしてもわからんのが志津子の気持ちだ。たしかにあの時は養子に出せと邪険なことを言ってしまった。それが不服で姿を消したのかもしれん。でも、まさか自分の手元からも放すとは……同じ養子に出すのなら、あのままの暮らしを続けられたではないか。そして、このようなわが社の一大事の時に、立派に役立ってくれたものを)
 
 そして翌日、社長室では――
 徳次郎は秘書の赤塚を呼びつけた。
「娘の様子はどうだ? 弟に会いに行く気配はないか?」
「はあ、それがその……今その娘は社内にいます」

作品名:夕霧 作家名:鏡湖