夕霧
8 弟の足跡
ふたりは狭い部屋で向かい合って座った。
「そう言えば、面影があるわね、目なんか志津子にそっくり……」
先程とは別人のように孝子は笑顔で語りかけた。そして、懐かしむように夕子を見つめた。
「志津子が言ったんでしょ? 間中がモナカを食べて共食いだとか」
「病床の母がモナカアイスを食べたいと急に言い出して、孝子さんのことを話してくれました」
「病床? まさか……」
「はい、母は十年ほど前に亡くなりました」
言葉を失った孝子は、しばらくテーブルの上に目を落としてから言った。
「そう……十年も前に……私からは連絡しないことにしていたから知らなかったわ」
「あの、それで弟は……」
「何から話せばいいかしらね……二十年も前になるかしら……志津子が赤ん坊を抱いて、そして小さな女の子の手をひいていきなり訪ねてきたの。ああ、あの時の女の子があなただったのね……」
感慨深そうに孝子は夕子を見つめた。
「ちょうどその時、来客がいてね、弁護士さんが。
ああ、この話からしなければならないわね。
高校の時、私の父が人を刺してしまったの。小さい町だったからもうそれだけで、私たち家族は居られなくなってしまって……すぐに学校も転校したの。学校に未練はなかったけど、志津子と会えなくなるのがとても辛かったわ。
父が刺した傷で相手の人は亡くなったんだけど、争いの発端も刃物を持ち出したのも相手の方だったので、過剰防衛かどうかで裁判になってね。その時お世話になった人権派の弁護士さんが、事件の後始末のため、志津子が来た時に居合わせたわけ」
そこまで話すと、孝子は立ち上がり、お茶の用意をし始めた。
「そこで、志津子はすべてをその先生と私に打ち明けたの。そして、私と志津子はその先生の言う通りにすることにしたのよ」
「先生の言う通りとは?」
「赤ん坊、後に聡(さとる)ちゃんと名付けられたんだけど、その聡ちゃんの養子先をその先生が探してくれることになったの。
それが見つかるまでは、聡ちゃんを私が預かることになってね。私は子どもを育てた経験がなかったから、志津子はとても不安だったと思うわ。もちろん私だってそんな大役務まるかしらって思ったわ。でも、その時はそうするしかないと思ったのね、二人とも。
それから弁護士さんによると、その子に危害が加わる可能性がある場合には、戸籍から養子先をたどれないようにできるらしくて、その手続きも進めてもらったの。そして、今後一切志津子と私は聡ちゃんとは関わらないと約束したのよ。弁護士さんがその方がいいって言うから。父の事件以来、私たちは会うことはなく、ごくたまに手紙で連絡を取り合うくらいだったから、特に変わりはないんだけど、聡ちゃんの成長が見られないというのがとても残念だったわ。でも、志津子は私とは比べ物にならないほど辛く感じたはずね」
孝子はお茶を持って座りなおした。
「それで、弟は?」
夕子の前に湯呑みを置いて言った。
「ある神社にもらわれたわ、跡継ぎがいないとかで、今は宮司になっているわ」
夕子は無性に会ってみたいと思った。それが伝わったのだろう。
「本当はいけないんだけど、これ」
孝子は箪笥の上の小引き出しから赤いお守り札を出してきて、それを裏返した。そこには神社の名前が刺しゅうされていた。
「私ね弁護士さんとの約束を破って一度だけ行ってしまったの。その時に買ったお守りがこれ。でもね、弁護士さんが神社を教えてくれたということは、一度くらいなら行ってもいいってことよね?」
そう言いながら、孝子はそのお守りを夕子に差出した。夕子は孝子の思いやりを温かく受け取った。
「ああ、それから、さっきはご免なさい。とにかく、やり手のお金持ちだと聞いていたから、どんな手段で私に近づいてくるかわからないと思って、いつも警戒は怠らないようにしていたの。
父が犯罪者と言われ、みんなが背を向けた中で、志津子だけは変わらず寄り添ってくれた……そんな志津子のためなら何でもしてあげたいと思ってきたの、ずっと。でも、もう志津子はいないのね……」
そう言う孝子の目から涙が溢れた。
もっとゆっくり母の話を聞いていたかったが、夕子は一刻も早く行ってみたいところができた。そう、今聞いたばかりの弟の居場所だ。孝子もそれを察したのか、引き留めることはしなかった。
夕子は、孝子の家を後にすると、その足で聡がもらわれていった神社に向かった。電車を乗り継ぎ、タクシーを使い、山の中腹にあるその神社にたどり着いた。
(ここに私の弟がいる……)
つい最近知った存在の弟ではあるが、ひとりっ子として育った夕子にとってまだ見ぬ弟への愛おしさに胸が高鳴る。
そんな思いを抱え、夕子は鳥居をくぐり参拝をし、お守りを買った。
その時、対応した若い宮司……夕子は表向きはさりげなく、しかし心中は特別な想いでその宮司を見つめた。
(聡ちゃん……)
これが最初で最後になるかもしれない、姉弟の対面――
やさしそうなその目は、幸せに育ったことを証明しているかのように見えた。育ての親は良い人たちなのだろう。母の選択は間違っていなかったのだ、夕子はそう思った。
夕子は、涙をこらえながらそのお守りを握りしめ、その場を後にした。
そして、家の近くに帰りついた頃にはもうすっかりあたりは暗くなっていた。と、近くに人の気配を感じた。家に入ってから、電気をつける前に、窓からそっと外を見ると、やはり人影があった。
見張られている――
夕子は、すべてを今日一日で終わらせてよかったとつくづく思った。徳次郎は聡の行方をどうしても見つけられないのだろう。そして、私にまで捜索対象を広げたのだ。つまり、跡継ぎがとうとういなくなってしまったということか。母の心配は的中し、そして二十年前の母の行動は、見事に功を奏したのであった。