夕霧
26 回想
涼介が出て行くと、徳次郎はまた昔のことを思いだし始めた。
貴美子の親が残してくれた土地に今の大きな社屋を建て、その一部に豪邸も新築した。まさに順風満帆、そう家庭以外は。
その頃だった、一人の従業員に徳次郎の目が止まったのは。徳次郎は、中学を出てからずっと働くことしか頭になかった。当然、恋などとは全く縁がない。貴美子を選んだのもおとなしい性格と、親の土地が目当てだった。そんな徳次郎にとってその従業員は初恋だった。それが高瀬志津子――
調べてみると、志津子には夫がいた。こちらだって家庭持ちなのだからそもそも無理な話なのだが、時として恋は人を狂わせる。まして、社長という立場はかなり優位だ。富裕層が愛人を囲うなんて話も当時は珍しくなかった。
ところが、志津子は子どもができて退社していってしまった。その頃は保育施設などなかったから、子どもができると子育てに専念するしかなかった。何事も思い通りに行くはずの徳次郎は諦めきれず、時おり志津子の身辺を調べさせていた。
すると二年後、夫が多額の借金を残して亡くなったことを知った。徳次郎は、ここぞとばかりに救いの手を差し伸べた。亭主には悪いが、徳次郎にとって初恋を実らせる機会が訪れたのだ。
その時の志津子は徳次郎の申し出を受け入れる以外の道はなかった。しかし、志津子は徳次郎が用意した住まいに越してくることはなく、夫との思い出が残る借家で暮らし続けた。しかたなく徳次郎は、二歳になる夕子を使用人に面倒を見させては、稲村繊維の保有する別荘で志津子との二人の時を過ごした。
やがて、志津子が身ごもり男子を出産した。それまでは惚れた弱みでできるかぎり志津子の希望を聞いてきた徳次郎だったが、養子に出してここで育ててはならないことだけは譲れなかった。そんな徳次郎の会社への異常な執着、跡継ぎ問題の偏見を肌で感じとった志津子は、ととえ養子に出したとしても将来どんな災いが降りかかるかもしれないとわが子の行く末を怖れた。そして、ここから逃げ出そう、いや、それだけではだめかもしれないと思った。もちろん、自分で育てたい、愛しいわが子を手放すなんて身を引きされる思いだ。でも、手元に置いておいたら何かあった時すぐに見つけ出されてしまう。
そして、思いついたのがあの孝子だった。
こうして、借金を肩代わりしてもらった大恩ある徳次郎に丁重な詫び状を残し、志津子親子は徳次郎の前から姿を消した。
涼介を見送りに行った貴美子が病室に戻ってきた。
「昔のこととはいえ、高瀬のことではおまえには不快な思いをさせたな」
「ええ、たしかに愉快なお話ではありませんが、あなたとこうして夫婦の会話ができるようになったことを思えば、良かったとも言える気がします」
「皮肉にも聞こえんことはないが、まあ有難い」
「それに、今回のことで涼介一家が戻ってくることになったのが、私としては何より嬉しいことですよ。また、太郎と暮らせるんですよね」
徳次郎と涼介との話し合いのため席を外していた夕子が、ノックをして入ってきた。
「高瀬、いや夕子くん、わしは社長職を下りることにした。つまり、あんたの勤務先はもうここではない」
「あなたったらそんな言い方はないですよ、ごめんなさい、夕子さん」
「いいえ、私など不要なのが当たり前です。ここは病室なのですから、本来ご家族に支えられて病気を治す場所です」
「あなたには本当に感謝するわ。最初に家で話を聞いた時は動転したけれど、なぜかあなたに悪い印象はもたなかったのよ。
そして、誰もものを言うことができなかった主人に言うべきことを言ってくれた勇気には本当に感心するわ。おかげで、これからは家庭らしい場所を作れる気がするし、会社も涼介に任せられるし、すべてはあなたのおかげ、そうよね、あなた?」
「ま、そうだな。これでやっと夕子くんの言いなりにならなくて済む。人の言うことを聞くのは、わしは苦手だ」
「あら、あなた、家に帰ったらまた暴君に戻るおつもりですか! それでしたら私は――」
「一度、崩れた体制は元には戻らないものだ。隠居老人は静かに余生を送るしかないな」
「そうですよ、太郎の遊び相手になってくださいな。孫っていいものですよ」
「夕子くん、これからは涼介のことをよろしく頼む」
「私はまだ見習い秘書の見習いですけどよろしいですか?」
「そうだったな、早く秘書の資格を取って、腕を振るってくれたまえ。もっとも、新体制になったら秘書の資格など不要になるかもしれんがな」
「は?」
「いや、こっちの話だ。
それから、これだけは言っておかなくてはな。律儀な君は、わしが父親の借金の肩代わりをしたことにひどく恩義を感じてくれているようだが、その必要はない。こう言ってはなんだが、あの時の君のお母さんにとっては返せないほどの額であっただろうが、わしにとってはたいしたものではなかったんだよ。だからそのことは気にせんでほしい」
「そうよ、夕子さん、あなたたち親子を縛り付けた代償と思えば足りないくらいよ」
「奥様……」
「そうよね、あなた?」
「ああ、おまえたちふたりにはかなわない、わしも歳をとった」
貴美子が窓を開けると、気持ちのいい風が病室に流れて込んできた。そして、その風が三人三様のこれまでのすべてのわだかまりを取り去り、心地よい空気に変えていったように三人は感じるのだった。