夕霧
最終章 姉弟
「すいませ〜ん」
「はい、お待たせしました。なんでしょう?」
「あの、こちらで挙式はできますでしょうか?」
「えっ、あ、はい、承りますが、でもまたなんでうちで?」
「以前に一度こちらに参拝させていただいた時、厳かな心境になったことが心に残りまして」
「はあ、それはありがとうございます」
「それで、二人だけなんですが……」
「は?」
「私に身内がいないもので」
「ああ、そういうことですか。もちろんかまいませんよ。実は僕もそうなんです」
「えっ! それではこちらの神社をおひとりで?」
「いいえ、僕、養子なんです。幼い時に引き取られて」
「…………」
「あ、でもこちらの養父母にはよくしてもらいましたし、実の母にも会ったことがあるんですよ」
「え!」
「十年くらい前かな、一人の女性が参拝に見えて、お守りを買われたんです。なんか泣いているよう見えたので不審に思い聞いてみると、親を亡くされたばかりだとか。それで僕はお気の毒に思い、絵馬を差し上げました。でも、なんだかとても気なって、お帰りになった後、奉納された絵馬を見てみたんです。そうしたら驚きました。そこにはなんと僕の名前が書かれていて、幸せになりますようにと……
だからその人が僕の実母ではないかと勝手に思っているだけなんですけどね」
「…………」
「あ、すみません。どうしたんだろう? こんな話誰にもしたことなかったのに」
「いいえ、いいお話を聞かせていただきました。そのお母さんの願いは叶ったのでしょうか?」
「ええ、おかげさまで、昨年結婚しまして、来年には子どもが生まれます」
「それは、おめでとうございます。私たちも幸せのおすそ分けをいただけますね」
「もちろん、精いっぱいのことをさせていただきます。それで、ご希望のお日取りは?」
神社を後にした夕子の胸に、志津子と孝子、二人の姿が去来した。孝子はお守りを買って帰ったことしか、あの時は話さなかった。ほんの短い間とはいえ、親となった思いは夕子の想像を超えるものだったのだろう。流した涙は、満足感からだったのだろうか? それとも名乗れぬもどかしさからだったのだろうか……
一方、実母志津子は、無二の親友の姿となって、愛するわが子に会いに来たのかもしれない。どちらも名乗れぬ二人の母の愛に包まれていることを、聡に伝えることができたら…… 同じく名乗れぬ姉の夕子は、そんな思いを胸に、新田とふたり山道を下った。
夕子の気持ちを察し、あえて姉弟の会話には入らず、後ろで黙って聞いていた新田が尋ねた。
「なんで、姉だと名乗らなかったの? もう稲村繊維は安泰だし、徳次郎氏だってすっかり温和なおじいちゃんになったじゃないか。会わせてあげたら喜ぶと思うけどな。やっぱりお母さんの遺志だから?」
「もちろんそれもあるけど、弟の人生、今のままそっとしておいてあげた方がいいと思ったの。育てのご両親にも申し訳ないし、その狭間で弟の気持ちが揺らぐのが忍びなくて……」
「そうだな、そうかもしれないな。
じゃ予定通り、式はここで挙げて、披露宴は会社の近くでやろう。お世話になった人たちに感謝の気持ちを伝えたいからね」
「そうしましょう。でもごめんなさいね、あなたのお身内を式に招待できなくて」
「ここのこと、知られたくないんだろ? かまわないさ、ふたりの想い出の場所があってそこでふたりだけで式を挙げたことにするさ。実は、親族のいない君と式は挙げにくいと思っていたからちょうどいいよ」
「新田さん……」
「それからもう一人、祝ってもらいたい人がいるよね?」
「ええ、母の親友の孝子さん。だけど、あの町にはきっと来たくないでしょうね」
「そうだね、じゃ、神社の式の方に来てもらったら? あ、そうか、さっきの聡くんの話だと聡くんは孝子さんを産みの母だと思っているようだったね」
「ええ、あの二人はそっとしておいてあげたい。弟のためだと思い、ここまでみんなで隠し通してきたんですもの」
「そうだね、でもいつか自然な形で、みんなが名乗りあえる日が来るといいね」
「ええ、少なくとも、式を挙げてくれた神主さんということで、私はずっとお付き合いすることはできるわ」
「それじゃ、孝子さんのところへは二人で結婚の報告に行こう。そしていつか、子どもが生まれたら、その子どもの成長する姿を見守ってもらおう。それでいいよね」
「ええ、そうしましょう」
神社の近くから見下ろす田畑は、先ほどまでの霧も晴れ、美しい夕日に照らされ輝いて見えた。
完