夕霧
25 和解
家庭では貴美子、社内では夕子にこれまで独占していた実権を揺るがされる形になってしまった徳次郎は、病室のベッドで昨日のことを思いだしていた。
昔はバリバリ仕事をこなし、会社も面白いように大きくなっていった。まさにわが世の春だった――
妻の貴美子はしおらしく、一男二女にも恵まれ、徳次郎は家長として当然の振舞いをしているだけのつもりだった。それがいつの頃からか、陰で暴君だと怖れられるようになり、使用人はもちろん家族さえ、近づき難い存在になってしまっていた。
そうなると、徳次郎はますます自我が強くなり、誰の話にも耳を貸さなくなっていた。そもそも偉大なる成功者に意見など述べる者はいない。娘たちは政略結婚であっても家を離れられるならと喜んで嫁いで行き、妻の貴美子とはもう長い会話など交わすこともなくなっていた。夫婦ではなく、いつしか同居人と化していた。
だが、同じく政略結婚で嫁いできた幸子に子どもが生まれると、気難しい夫に仕えるだけの貴美子に楽しみができた。孫をとてもかわいがり、豪邸の一室だけは家族の笑い声に包まれた。その涼介一家も出て行った屋敷は、また元の静けさに包まれ、会話のない同居人と使用人の暮らしがあるだけだった。
病室に押しかけてきた妻――その声さえも久しぶりに聞いた気がする。
(思えばまともに顔を見たのはいつのことだろう……)
身の回りのことは、長年住み込んでいる家政婦がすべてやっていた。今や、夫婦といっても戸籍上のことだけのようなものだった。
徳次郎は遠い遠い昔のことを思いだしていた。
妻の貴美子はここいったいの地主の一人娘だった。地主と言っても、痩せた土地で農家から得る小作料はわずかなものである。
幼なじみの貴美子の家の様子を間近に見ていて、貧しい家に生まれた徳次郎は、いつからかこんなことを考えるようになった。
(土地を持ちながらそれを生かしきれない貴美子の家から土地を借りて、今のこの貧乏から脱するんだ!)
そんな徳次郎は、中学を出ると、隣町の小さな繊維会社で雑用係として働き始めた。自分の会社を持つことを夢見ていた徳次郎は、与えられた仕事をこなすだけでなく、繊維会社というもののしくみを覚えようと、人一倍働いた。
そして数年後、その努力が実りなんとか独立する目途がたった。そのためにあと必要なのは貴美子、いや正確には貴美子の相続する土地や財産だった。
徳次郎は唐突に、そして強引に貴美子に結婚を迫った。そう、わが子ばかりか自分自身が政略結婚だったのだ。今さらながら、貴美子には申し訳ないことをしたものだと思う。
結婚すると早速、執拗に舅に懇願して、土地の一部に掘っ建て小屋のような会社を作った。『稲村繊維』の誕生だった。それからは文字通り死に物狂いで働いた。時代の波に乗り、新会社は驚くほどの急成長を遂げたが、引きかえに当たり前の家庭を失うことになってしまった。
「涼介を呼んでくれ」
徳次郎は何かを決意した様子で、貴美子にそう言った。
やがて訪れた涼介と二人、病室のソファーで長い話し合いがもたれた。
「父さん、本当にいいんだね? 幸子と太郎を連れて家へ戻って。もう一人男の子が生まれても養子になんか出さないぞ」
「ああ、かまわぬ」
「稲村繊維も俺が継いでいいんだね?」
「ああ、でも専務一派から目を放すな」
「なんだ、父さん気付いていたのか」
「いや、高瀬から不穏な動きと聞いただけだが、そう言われれば横尾以外に考えられんからな」
「え、俺も夕子さんから同じことを聞いた」
「あの娘は賢い。会社に尽くしてくれると言っているから、右腕として使うと良い」
「実は俺にも考えがあるんだ。世代交代ということで、思い切った人事を考えているんだけど」
「おまえが社長になるのだ、好きにしろ。たしかに古参がいたのではやりにくいかもしれんしな」
「横尾専務には退いてもらって後には甥の三崎明、そして、横尾氏には長年の功績に報いて顧問についてもらう。非常勤という形で、権力を行使できないようにさせてもらうけどね」
「お、おまえ、横尾を切るというのか!」
「新田から聞いた話なんだけど、赤堀室長がたびたび横尾専務の部屋へ出入りしているらしいんだ。何か画策しているに違いないだろう? 俺、父さんみたいに能力だけを買って、人間性を二の次って器用なことはできないよ。本当に信用できる人物で固めてやっていきたいんだ」
「わかった、おまえのやり方でやれ」
「それからもう一つ。副社長の席は当面空席にしておくつもりだよ」
「適任者がいないということか?」
「逆さ。なってもらい人がいるんだけど、時期尚早というか……」
「まあ、おまえはまだ若いんだから、慌てて後継者を決めることもなかろう。そうか、太郎の成長を待つんだな」
「そんな先の話をしているんじゃないよ、父さん。今回の功労者を忘れていないか?」
「まさか……」