夕霧
24 扉
その朝、いつものように夕子が出勤先である徳次郎の病室のドアをノックすると、女性の声で返事があった。もしやと思いドアを開けると、やはりそこには貴美子の姿があった。
「おはようございます」
「ごくろうさまね、夕子さん」
そんな二人の会話に不機嫌そうな顔を向け徳次郎が言った。
「これはお前の差し金か?」
迫力を利かしたつもりでも、病衣姿では効力は半減だった。
「社長、おはようございます。いったい何のことでしょうか?」
「とぼけるな! こいつ呼んでもいないのに勝手に来て、帰れと言っても帰らぬ。わしに逆らったことなどない貴美子がだぞ! わしがちょっと動けないことをいいことに、その態度はけしからん。おまえが何か吹き込んだのだろう!」
「私などの言葉で、それほど服従なさっていらした奥さまが急に変わるなんて考えられますか? お元気になられた後々のことを思えば、怖ろしくて私の言葉などなんの力もないはずです。
そうではなく奥さまはただ、病の夫に付き添うという妻として当然のことをなさろうと思われただけではないでしょうか?」
「わしは病気などではない! 検査入院なのは言っておいたではないか」
「ここ数日、お加減がお悪そうではないですか。それに検査には結果というものが出ます。それはご本人かお身内の方しか聞くことはできません。ですから私は存じませんが、主治医からの助言もあり奥さまに連絡を入れさせていただきました」
「勝手なことを! わしに直接話せばいいではないか!」
「社長、お約束いただきましたよね? この病室では私の言うことを聞いていただくと。同じく病院では、医師の言うことを聞くのが常識というものです、たとえ多額の寄付をなさっている立場であってもです。お医者様が奥さまにお話されることを判断したのですから従ってくださいますよね?」
徳次郎の表情が徐々に変わっていくのがわかった。
「貴美子、医者に何と言われた?」
「それでは私は席を外させていただきます」
立ち去ろうとする夕子を、貴美子が引きとめた。
「いいえ、夕子さんも聞いてちょうだい。いいですよね、あなた。この方は遠い身内のような関係ですものね」
妻のその言葉にさすがの徳次郎も言葉に詰まった。
「おまえ……知ってたのか……」
「はい、つい先日夕子さんから直接伺いました」
「なんだと! 口が軽いのは秘書として失格だ!」
稀に見る横暴な徳次郎でも、妻に母のことは隠していたかったのだと、夕子は少し驚いた。そんな夕子をかばうように貴美子が言った。
「いいえ、これは仕事とは無関係です。家庭内のことは私が知る権利があります。それなのにこれまで私が何も知らなかったいうことの方が問題ではありませんか?」
自分の妻はこんなにハッキリとものを言う女だっただろうか? まるで別人を見る思いで徳次郎は言った。
「まさかお前まで、ここではお前の言うことを聞け、とでも言うつもりか!」
「はい、当主が倒れたというのは稲村家の一大事です。家族が一つになって事に当たらなければなりません」
「わしは倒れてなどおらん。健康診断のような入院をしているだけだ」
一呼吸置いて貴美子が言った。
「あなたは今まで本当によく働いてこられました。もう、後は涼介に託してゆっくりとなさってください」
「働くなと医者が言ったのか? わしはそんなに大病なのか?」
「お歳を考えてください。今のままの生活を続けると次の桜は見られないかもしれないそうです。でも、養生すればまだまだお花見はできるそうですよ」
「わしは花見をするために生きる気はない」
「では、会社のいく末も見なくていいのですか?」
「それは……」
それまで夫婦の会話を黙って聞いていた夕子が口を挟んだ。
「社長、秘書としてお話し申し上げます。
涼介さんとの不和に乗じて社内に動きが見られます。社長の危惧されている通りです。それで、この入院を画策されたのですよね? でも、残念なことに社長は重責に耐えられないお身体だということがわかりました。いいえ、むしろ、手遅れにならないうちにわかって良かったとも言えます」
珍しく徳次郎は、素直に夕子の話に耳を傾けている。
「これからお話することは奥さまにはお耳触りかと思いますが、どうぞお許しください」
夕子は貴美子に向かい、そう前置きしてから話を続けた。
「実は先日、涼介さんに呼び出され、母や弟のことを聞かれました。私は知っていることはお話しして、ぜひ、こちらに戻って社長の後を継いでほしいと申し上げました。もちろん、弟が現れることは決してありませんからそのご心配は無用で、代わりに私が社長に恩返しをさせていただきますからと」
徳次郎は、夕子の真意を測りきれず尋ねた。
「恩返しだと? それは皮肉か?」
夕子はまっすぐ徳次郎の目を見て話した。
「いいえ、父が事業で多額の借金を残し他界し、途方に暮れていた母を救ってくださったのは社長です。私はその事実以外のことは考えないことにしました。ですから、社長も弟のことは忘れてください。それが母のただ一つの願いですから。それに何より社長には涼介さんというご立派な跡取りがいらっしゃるではありませんか!」
「……なぜそんなに弟をわしから遠ざけたいのだ……おまえたち母子は?」
「それは弟の幸せを願うからにほかなりません。弟には弟のこれまで歩んできた人生があるはずです。それはこちらのような地位や財産はないでしょう。でも、ご長男の涼介さんと争ったり、社内のいろいろな思惑に左右されたり、そんな世界に引きずり込みたくないのです。平穏で穏やかな暮らしをさせる、それが母の何よりの願いだと思いますから」
「おまえが代わりにそのイヤな世界に飛び込むというのか?」
「いいえ、私は社長の血筋ではありませんから、弟とはまったく立場が違います。あくまでも一社員として貢献させていただくだけです」