夕霧
21 不透明な情勢
「稲村さんが倒れたとなると、話は変わって来るかもしれんな」
秋月家の居間で、涼介は義父の哲次と向き合っていた。
「はい、まだ検査中ということで詳しい病状はわかっていませんが、年齢が年齢ですから」
「八十は超えているだろうな」
「はい、八十三です」
「そうか、跡継ぎの件も進んでいないとなると、親父さん死んでも死にきれんだろうな。おっと、縁起でもないことを、すまん」
「いいえ、でも確かに今は不仲とは言え、子どもとしてはもしこのまま……と思うと――」
「そうだろうな……涼介君、この前の話は白紙ということで、君は稲村家のことを考えなさい。今はそうすべきだ、後悔のないようにな」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
翌日、夕子は徳次郎のために図書館に向かった。あえて本屋ではなく図書館を選んだのは、本を借りて読む人の気持ちを理解してほしいのと、図書館の本の拡充にも目を向けて欲しかったからだ。
病室で読むということを配慮して、肩の凝らない、それでいて飽きのこない本を選ぶのに時間を費やしてしまい、病院に着くのがだいぶ遅くなってしまった。
急いで病室に向かう途中、ナースステーションの前を通った時だった。夕子は担当の看護師に声をかけられた。
「高瀬さん、さっき稲村さんの部屋の前を通ったんだけど、びっくりしちゃった」
「どうしたんですか? 社長に何か!」
「いえね、笑い声が聞こえてきたんですよ、それもあの稲村さんのよ。びっくりでしょ?」
「ええ!」
夕子が驚きの声を上げると、近くにいた別の看護師が話に加わった。
「朝食の後、ナースコールが鳴って、私、DVDをセットするように頼まれたんです。それが毒舌漫談で一世を風靡したあの人のDVD。だから、きっとそれを見て笑っていたんだわ」
また別の看護師もやってきて、
「あの人でも笑うことがあるんだってみんなで驚いちゃった。気難しいだけのお偉いさんだとばかり思っていたから」
「そうですか」
「あ、そういえば、昨夜もナースコールでDVDをかけるよう頼まれたって言ってたナースがいたわ。稲村さんの用はDVDねってみんなで笑ったのよ」
夕子は胸にジーンときた。目の前ではあんな態度を取りながら、実は私を受け入れてくれている、そんな気がしたからだ。
「秘書さん、ちょっと」
病室へ向かう廊下で、今度は担当医師に呼び止められた。
「何でしょうか、先生」
「ちょっと、こちらへ」
夕子はそのまま医師の部屋へ通された。
「徳次郎さんの検査結果なのですが、ちょっとまずいことになっていて」
「え? 社長は何の症状もなくて仮病だと言っていましたが」
「ええ、私も検査入院を、会社の方には具合が良くないということにするよう頼まれました。ところが、その結果が……
詳しい内容については、本人もしくはご家族の方にしかお話しできませんが、ご本人に伝えるとなると私はあの方がどうにも苦手でして……この病院も稲村繊維さんから多額の寄付をいただいている手前、頭が上がらないというか……」
困ったような表情で医師は続けた。
「今回の入院のように何か無理難題を言われても困りますし、かと言ってご本人に知らせず、直接ご家族に連絡を入れたりしたらご立腹されるのは目に見えています。
それで、あの方が珍しく信頼されているあなたと話し合ったということで、あなたからご家族に連絡を入れてもらおうかと」
「私が信頼されている!?」
「ええ、あの方のあなたに対する態度はどこか違います。あなたを見る目は唯一、人を見る目のように思えるのです」