夕霧
20 戦略
社長が倒れた。その一報で、稲村繊維社内はハチの巣をつついたような大騒ぎだった。
病院の特別室に駆けつけたのは副社長で弟の三郎と専務の横尾、社長秘書の赤堀と新田、それから女手を考えて夕子も駆り出された。病室のベッドで眠っている徳次郎の顔を見た会社関係者たちは、廊下の先にある休憩所に向かった。そして、今医師から別室で説明を受けている家族をそこで待つことになった。こうして、病室には夕子だけが連絡係として残り、徳次郎に付き添った。
思えば不思議な縁だ。目の前に横たわる徳次郎を見つめながら夕子は思った。この人のおかげで昔、窮地に陥った母と幼い私は救われ、同時にこの人のせいで母や弟と引き裂かれた。複雑な思いだが、感謝をしても恨み言は言うべきではないだろう。どのような形であれ、多額の借金から解放してくれた恩人なのだ。
その時だった、社長が目を開けた。驚いた夕子がみんなを呼びに行こうと椅子から立ち上がると、
「待て」
と言われた。それはとてもしっかりとした口調だった。夕子はベッドに横たわる社長をじっとみつめて言った。
「まさか……」
「そうだ、仮病だ」
「ドクターは?」
「もちろん、協力者だ。医者は騙せん」
「どうして? 社内は大変なことになっています。業務にも支障をきたすではありませんか!」
「だろうな」
そして、夕子はハッとした。
「でも、それならどうして、私に打ち明けたのですか? それでは意味がなくなってしまうではありませんか?」
「お前も協力者にするつもりだからだ」
「協力って何に協力するのですか?」
「私の座を狙っている奴を炙り出すのだ。涼介との一件を嗅ぎ付けた奴らが何か画策しているに違いない。おまえの弟が見つかるまでは何としてでも会社を守らねばならん。それとも、弟の居所を教えてくれるか?」
夕子は初めてこの老人を哀れに感じた。病室で横たわっているという姿がそうさせたのかもしれない。年齢を考えると、仮病ではなくなる日も遠からずやってくるだろう。病に倒れても、その座ゆえに社員たちが騒いでいるだけ。身内は医師の話を聞きに行っているというが、ふつう誰か一人は残って付き添うものではないか。その役目を業務の一環として夕子に課せられている。社長そのものが会社の歯車にすぎないということか―― でも、その本人すら会社のことで頭がいっぱいで、その侘しさなど微塵も感じていない。なんてかわいそうな人だろう、夕子の胸に憐憫の情が湧いた。
涼介を呼び戻し、しっかりとした会社の基盤を整え、この老人に安心させてやりたいと心から思った。そして、仕事以外にもこの世の中、素晴らしいことがいっぱいあるということをわかってほしい。それにはまず、この老人に人の温かさ、家族の有難さに気がついてもらわなければならない。そうしなければ、本当の意味で涼介は戻っては来ないだろうから。
「わかりました、でも弟のことは私は存じません、その他のことはお手伝いさせていただきます。ただし、この病室にいらっしゃる間は、私の言う通りにしていただきます」
「なんだと!」
「私、お芝居は下手ですので仮病がばれてしまうかもしれませんがいいんですか?」
「おまえ、わしを脅す気か!」
「とんでもありません、精いっぱい務めさせていただきます。それでは早速、社長が目覚められたことをみなさんにお伝えしてまいります」
夕子から報告を受けた会社関係者たちは、あわてて病室へと向かった。そんな彼らに背を向け、夕子はそのまま病院を出た。
そして、再び病室に戻ってくると、一行は会社に戻ったようで、徳次郎だけが憮然とした顔で夕子を迎えた。役員たちのあからさまな見舞いの言葉が不機嫌にさせたのだろう。腹の中では次の座を狙っているに違いない連中だと徳次郎は決めつけているのだから。
「どこへ行ってた? 勤務中のはずだぞ」
「はい、DVDをいくつか借りてきました。どれからご覧になりますか?」
「そんなもの頼んだ覚えはない。わしはテレビなど見ん」
「ええ、でもそれでは退屈かと。明日は本でも持ってまいります」
「読みたければ家の書斎から持ってこさすからいい」
「社長は今までご病気されたことはないのですか?」
「そんな暇などない」
「では、入院も初めてなんですね?」
「当たり前だ、仕事を休んだりできるか!」
「では、今まで味わったことのない体験を楽しまれてはいかがですか? 仮病とは言え、入院中にお仕事はできません」
「仕事はする、だからおまえを連絡係に置いているのではないか」
「たいした病気ではないと思われては入院の意味がなくなるのではありませんか?」
「ふ〜ん、まあ、それはそうだ」
「DVDどれにします?」
「…………」
「ええと、子どもたちに人気のアニメと、高齢者に人気の毒舌漫談、それから大自然の映像などです。どれも癒されると思います」
「どれもつまらなそうだ。わしは寝る」
「社長、昼間お眠りなると、夜寝つきが悪くなります。病院は九時消灯ですから、寝付けないとお困りになりますよ」
「いちいちうるさい!」
「私は、あと一時間ほどで勤務時間が終わりますから、少しおしゃべりしませんか?」
「おまえと話すことなどない」
「社長は仕事以外のことに興味がないご様子ですから、人と話すのも仕事のことだけですよね?」
「それが悪いか!」
「いつもと違う話題もたまには面白いと思いますよ」
「そんなにしゃべりたければ勝手にしゃべって、時間になったらとっとと帰れ」
言われた通り、夕子は最近出かけたお気に入りの店の話や、感動した邦画のあらすじなど、思いつくままにしゃべり始めた。そして、あっという間に退社時間になり病室を後にした。
広い病室に一人残された徳次郎は、今までになく早い夕食をとった。その後消灯の九時まで何とも手持無沙汰だった。仕方なく夕子の置いていったDVDを手に取った。ナースコールを押し、大自然のDVDをセットさせた。それは大迫力で、見るものを引きつける映像だった。
(世界にはこんな所もあるのか……)
美しい映像を十分に堪能し、終わる頃にちょうど消灯の時間になった。ほどよい睡魔がやってきて、徳次郎は心地よい眠りについた。