夕霧
15 社内構図
その日、稲村繊維の社長室の大きな窓には大粒の雨が叩きつけていた。昼間だというのに辺りは暗く、このまま夜を迎えそうに思われたが、予報では夕方には回復するという。部屋には徳次郎と秘書室長の赤堀がいた。
「あの件はまだわからないのか?」
「はい、手を尽くしているのですが」
「そうなると、やはりあの娘だな。向こうから飛び込んできてくれたおかげで手間が省けるというものだ」
「はい、ですが、なぜまたわが社に? 何か目的でもあるのではないでしょうか?」
「ま、こちらの出方を探る腹もあるだろうが、生活のためかもしれん。女の一人暮らし、安定した職に就かなければ不安だろう。ここならある意味縁故入社のようなものだからな」
「はあ、それにしても、自分が置かれている立場を知っていて飛び込んでくるなんて、若いのに胆の据わった娘ですね」
「ああ、あの目を見ればわかる。強い意志を持った娘だ。それも母親譲りかもしれん。でも、母親の方はそれを外には出さず、強さを内に秘めた淑やかな女だったが……」
徳次郎が志津子の死を知ったのは、志津子が亡くなってからだいぶ後のことだった。まだ制服姿の娘がひとり、母親を看取った姿が哀れだったという話をたまたま知り合いの葬儀屋から聞いた時だ。もしやと思ってよく聞いてみると、それはやはり志津子だった。暮らしに苦労したのだろう、手元に置いておくべきだった、徳次郎はそう悔やんだ。心から惚れたただひとりの女だったからだ。
「母親は本当に親しくしていた親類や友人はいなかったのか? わしにはそういうものはいないと言っていたが、本当に一人もいなかったのか?」
「はい、互いの両親が結婚に反対だったとかで、駆け落ち同然にいっしょになったようで、親類とは疎遠だったようです」
「確かに、亭主が死んだ時も誰も来なかったという話だ。てっきり、残した借金の件で煙たがられたのかと思っていたがそうではなかったのか。で、友だちはどうだ? 昔は一人や二人はいただろう?」
「いいえ、特に親しかった者はいないようです。ただ」
「ただ?」
「はい、高校時代、友人の父親が人を殺めてしまったとか」
「ほう、それで?」
「過剰防衛か正当防衛かで裁判沙汰になったそうですが、小さい町のこと、人が死んだというだけで、一家は追われるように町を出て行ったそうです」
徳次郎はその話に興味を示し、身を乗り出した。
「志津子とその娘は親しかったのか?」
「かなり親しかったようです。ですが、その事件以来、どの親もあの一家との関わりを固く禁じていましたし、何より誰も転居先を知らなかったようです」
「手がかりが何もない今は、その友人のことを調べろ」
「はい、承知しました」
社長室を出た赤堀は屋上に出ると、誰もいないのを確認して、スマホを取り出した。そして、何件か電話を入れ、いくつかの指示を与えた。そして、屋上をあとにすると専務室に向かった。周囲にひと気がないことを確認してドアをノックした。
「専務、赤堀です」
「入れ」
専務の横尾は出来る男で、稲村繊維の屋台骨だ。徳次郎もその才には一目置き、厚遇している。でも、野心家の横尾にこれで満足ということはない。常に上昇を試みている。
「社長の動きはその後どうだ? 問題の息子とやらは見つかりそうか?」
「いいえ、その母親のところで行き詰っています」
「娘が入社してきたそうだな。そこから聞き出すということはできんのか?」
「はい、以前、聞き取りをした顧問弁護士の話では、その娘は本当に弟の存在すら知らなかったようです。よほど、母親は用心深い人物だったようで」
「そうか、典型的な二代目の涼介が後を継ぐものだと安心していたが、よもや、あの社長に盾突いて、社を出て行くとは思ってもいなかった。それにしても、やっかいな人物が出てきたものだ。もしその息子がやり手の野心家だったら話は変わってくる。二代目のお坊ちゃまがおとなしく後を継いでくれればこちらとしても扱いやすかったものを」
「そうなれば、名目だけの社長で、実権は専務ということに……」
「滅多なことを言うな、誰が聞いているかわからん。何か動きがあったら、逐一知らせるように」
「はい、専務」
「社長はあの高齢だ。弟の副社長だって大差ない。もう代替わりは近い」
そう言うと、横尾は窓の外を見た。さっきまで大降りだった雨は上がり、眼下の景色が見えるようになってきた。この景色を城主として見られる日もそう遠くない、そう思うと沸々と闘志が湧き上がってくる。
「このまま例の息子が見つからないと、副社長が後継者ということには本当になりませんかね?」
「それは絶対にない。同じ兄弟でも社長とは正反対、おとなしい気性の副社長は兄のイエスマンだ。経営の才覚などないことは、社長は当然のこと、本人も自覚している。だから身内はあの弟だけを会社に入れたのだ。その副社長の息子を入れさせない徹底ぶりには驚くが、それを了承した副社長の服従ぶりにも呆れるな」
「はあ、まことに。でも、ということは例の息子が見つからない場合、いったい誰が後継者に?」
「まあ、いざとなればやはり長男を呼び戻すか、あるいは……」
「あるいは?」
「この会社を実質支えているのは誰だっけ?」
「は、それは専務です」
「君も、社長の側近として長年、あのワンマンによく仕えてきたものだ。でも、さすがに八十を超えた社長の先を考え、こちらに着くとは賢いな。悪い様にはしないから、これからもよろしく頼んだぞ」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」