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夕霧

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13 秘書室


 初出勤の緊張感を胸に、夕子は『稲村繊維株式会社』と彫り込まれた重厚なプレートの前に立ち止まった。その正面玄関で上を見上げると、この辺りでは見かけないビルが高々とそびえ立っている。それはあたかも来る者に無言の圧力を加えているかのようだった。
 受付に挨拶をすると、社員であることを証明するカードを渡された。写真などのない仮のカードに手書きで夕子の名前が書かれている。それを首にかけ、夕子はエレベーターホールに向かった。
 出勤時間ということでエレベーターは混んでいた。それぞれが降りる階を押し、最後に乗った夕子が十階のボタンを押すと、まわりの視線が集中するのを感じた。十階は役員室と秘書室だけ、つまり私は秘書です、と言っているようなものだったのだ。
 途中の階で次々とみんな降りていき、最後にひとり残った夕子が十階に降り立った。面接の日、新田に連れられここに来た時はまさかこんなことになろうとは思ってもいなかった。どこか小さい部署の雑用に回され、形だけの雇用だと思っていた。でも、社長の近くにいればいろいろ情報も入るだろうから、夕子にとって願ってもないことだ。しかし、何か話がうますぎる。都合がいいというのは相手にとっても同じこと。つまり、逆に利用されるということだろうか? と思い夕子としても手放しで喜ぶわけにはいかなかった。
 さあ、とにかく戦闘開始だ! 夕子は気持ちを引き締め秘書室のドアをノックした。
 
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日からだったね」
 ドアの近くが新田の席らしく、入ってきた夕子にすぐ気がついた。
「はい、よろしくお願いします」
「じゃ、さっそく君の先輩たちに紹介しよう」
 そう言うと新田はまず初めに、室長の赤堀のデスクに向かった。
「おう、高瀬君、君のことは社長から頼まれている。わからないことはこの新田君に聞いてくれ」
 顎が細く突き出て、かけている眼鏡の奥の目は、無感情な人柄を表しているように夕子には思えた。
「そういうことで、さあ、いこう」
 新田は、朝日の射し込むオフィスの中、夕子を連れて歩き回った。
 副社長担当の小出勉、専務担当の三崎明と補佐の丸木礼子、それから三人の常務それぞれにひとりずつ女性秘書がついている。
 ひと通り紹介がすむと、新田はつい立の向こう側に夕子を連れていった。そこにはひとつの机がポツンと置かれている。不思議に思う夕子に新田は言った。
「ここが君のデスクだよ」
(え! 私は窓際族? いいえつい立族ということ?)
「引出しをあけてごらん」
 そこには、秘書の通信教育本がびっしり詰まっていた。
「君は午前中、ここで勉強をするんだ。もちろん、資格を取るためさ。そして、午後は僕について見習いの仕事をする。じゃ、そういうことで」
 勉強なんて久しぶりだった。幼い頃から生きることで精いっぱいで勉強なんて贅沢なことに関心などなかった。だから、とても新鮮で、遅まきながら学生気分を味わえる、そう感じた。
 
 昼休みになると、専務秘書補佐の丸木が声をかけてくれた。丸木は昨年入社の新人秘書で、夕子が初めての後輩となる。
「高瀬さん、こっちよ」
 絨毯敷きの廊下の端にある役員室というプレートの部屋を開けると、中央のソファーに女性秘書が三人すわって弁当を食べていた。
「ここはね、私たち女性秘書の休憩室なの。役員室が一つ余っているのでお昼休みだけ使っていいのよ。夕子さんお弁当は?」
「あ、持ってきませんでした」
「だと思って、私、二つ買っておいたの。よかったらどうぞ」
「ありがとうございます。おいくらでしょうか?」
「あら、いいわよ」
「じゃ、明日は私が」
 二人は、ソファーの端に掛けて弁当を広げた。
「丸木さん、ずいぶんと親切なのね」
 先輩秘書に言われ、丸木はこう答えた。
「大切な後輩ですから」
 
 午後は、新田に連れられ、社内を案内された。まずは、仕事場である役員室を見て回った。各部屋には名前と役職が書かれた金色のプレートがかかっている。秘書の休憩室には、たた役員室と書かれていた意味が分かった。
 それから各階を、ここが総務、ここが人事と説明されたが、一度で覚えられるはずはない。そして最後に連れていかれたのが、社長室だった。ここは一度来たことがあったので、部屋の案内ではなく、社長に挨拶するためだとわかった。
 新田がノックをして入ると、そこはあの時と同じ光景だった。いかにも重厚な椅子に掛けその立場を誇っている徳次郎と、その横に眼鏡の赤堀室長。
「今日から出社しました高瀬を連れてまいりました」
「そうか、どうだ、この稲村繊維の感想は?」
「はい、私は会社勤めが初めてですので、すべてが新鮮で驚く事ばかりです」
「だろうな、資格が取れたら本採用となる。いくら社長の一存での採用といえ会社には規定というものがある」
「それでは、私は本採用ではないのですか?」
「今、言った通り、秘書には資格が必要だ」
「でしたら、私は秘書ではなく、雑務でかまいませんので、社員にしていただきたいのですが」
 夕子はこれまで正社員になったことがない。そんなことにこだわっているとは自分でも思っていなかった。が、どうやらそうらしいと自分でも今初めて気がついた。
「君、なんてことを! 社長に口答えなど」
 赤堀の叱責を受けても、夕子はひるむ様子はない。そんな夕子を見つめ、徳次郎は言った。
「どの部署で使うかを決める権限は、社長のわしにある」 

作品名:夕霧 作家名:鏡湖