帰郷
肉体に付随してあげる声は忘れられていく。気がつけば体と声の幸せな融合は破れていて、精神という毒が頭頂から爪先にまで行き渡り、その薄膜に濾された言葉でしか喋ることができなくなっている。何も知らなかった無垢で幼い人形をした肉体に、最も親しい人間が、炎でもあり氷でもある烈しい毒を目や耳や口、穴という穴から容赦もなく注ぎ込み、柔らかく震え、くすみひとつない肌に塗りつけたのだ。昼となく夜となく、二六時中私という真新しい容れ物に、自分たちの経てきた星霜の滓を詰め込んだのだ。仕種や癖、話しようや物の嗜好すべてを私自身に由来するものとして受け入れざるを得ないほどに。疑いさえできない、肉親より与えられた毒は、物心ついた頃には慣れ親しんだ顔をして全身を経巡っていたのだ。
私はまぎれもなく父と母の創造物であったのだ。そしてごくわずかな分量は姉の創ったものでもある。どれほど否定しても、忘れようと足掻いてみても、私を撲ち、固め、滑らかに形を整えた、信念に貫かれた四本の手と二つの口、遊び半分、またはいきなりな感情に任せて躍動するひ若い二本の手とひとつの口、そして変容していく私を執拗に、でも温かく見守る六つの目をなかったとうそぶくことはできないのだ。
幼い頃に刻み付けられた痕跡は、成長するに及んで、ほど近い場所に住んでいる祖父母や母方の伯父叔父季父、従兄弟、遠地に分散して暮らしている父方の兄弟姉妹と、その男女どれほどいるのか到底数えられない子供たちなどの親類縁者、幼稚園、小中高校、大学という擬似的な小社会での先生という種類の大人や、日々顔を突き合わせ交友した、せざるを得なかった同級生、先輩後輩の様々な影響から私が好んで招き寄せた汚濁にまみれて見えにくくなった。しかしそれは私という肉の存在から消えようがない。
それほど深く私に立てた爪を死ぬ間際になっても放そうとはしない父と母、私をこの世界に生み出し、世の種々と渡り合わせる性癖を方向付けた一組の男女は、依然として与り知れない闇でもある。私が生きて父母を想う限り、私の思いの行き届かない暗部としてあり続ける。
祖父は断線だと言った。父と母とはそこまで遠く切れてはいない。今、父母の存在を一筋の恣意的な線に譬えるとすれば、私の誕生とともにいきなり太く始まり、実家を出て独りで暮らしだしてからは薄墨で引かれた細い線のように思われる。もっともこれはどこまでいっても、今ここにいる私が心に造り出した像でしかない。生まれ出て物心つくまでの数年は父は父でなく、母も母ではない。太い線などであるはずがない。
それに今も連続した線ではあり得ない。常に父と母とが、私の意識に貼り付いているなんていうことはあり得ない。いや、独立した人間としてあってはならないのだ。
電車の窓外の青くなりはじめた空の下に、家々の四角い明かりが灯っているのを見ると思い出す光景がある。それは川沿い、雑木、雑草の茂みの中にあった。府中の駅を南に過ぎ、踏み切り脇で昔から営業している焼肉屋から二車線の道路を渡り、密生した藪を越えて辿り着く川の向いの岸にあった。錆の浮いたトタンを寄せ集めた粗造りの小屋だ。線路に向かったトタンの壁は長方形に切り抜かれて、木枠の桟に縁取られた硝子窓が嵌まっていた。小屋の内はいつも暗く静まり、虚の気配が漂っていた。ただ申し訳程度に藪を切り拓いて畝を拵え、青い物を作っている畑と、使い物にならないタイヤだの、何に使われていたのか想像もできない機械部品の鉄屑だのが小屋の壁へ片寄せられていて、時折転がっていたタイヤが減ったり、新しい鉄錆びたがらくたが増えたりするために、そこで生活する人のあるのが知られた。
ある朝、詰め込まれた電車の窓の外に小屋がなかった。まさかと思う間もなく通り過ぎて会社に着き、若い時分の惰性によっかかったみたいな仕事に疑念は紛れて定時を迎え、繁華街の光も仰がずに、乗ったこともないような早い時刻の電車に体を押し込んだ。自分には関係ないじゃないか、という自嘲の声を聞きながら、十分確かめられるよう、進行方向に背を向けて扉脇の手摺りに身を凭れさせた。
せっかく早い電車に乗り、本当に小屋がなくなってしまったのか確かめるつもりが、そこと思われる場所は、満たされた暗い静まりを見せて過ぎ去った。建物の影らしきものも見えなかった。翌朝、府中の駅に近付いて速度を落とした電車の窓から、小奇麗になった、雑草が刈り取られて見通しよく整地された公園を唖然として眺めた。小さいながらも岸辺の砂や石が海へ流れ行く水に洗われ、川としての相貌を備えていたものが、市の環境事業か何だか知らないけれども、岸をコンクリートで高く固めたその煽りに計画された周辺整備の際に取り壊されたものらしい。その小屋がなくなる数日前だったのだ。私が整備された場所に差し掛かると思い浮かべる光景を見たのは。
老人でもなかった。しかしそれ相応の年配とは見受けられた。十年ほど経った今もはっきり覚えていると言いたいくらいその姿は鮮やかだった。トタンに嵌め込まれた硝子がぼうっと明るんでいた。電球の黄色い灯りに浮かび上がった、少し腰を屈めたような姿。部屋の内なのになぜか嵩の高い帽子を被っていて、手先を動かしている。吊り下がった電球の笠の具合をみているらしい。それだけの光景だ。磨硝子だったのか男の姿は影絵のように真っ黒で、温かそうな電球の光が男の身体を包んでいる。その部屋はとても温かそうだった。
あの暮らしは身寄りのいる者にはとてもじゃないができないだろうと、ようよう二十を越えたばかりの若年の、世間のことなど何も知らない無邪気さで想像したものだ。案外近くにいる子供の家へ収まったか、結構な額の金を貰って他へ移り住んだのかもしれないなどと思いもしたが、実際のところはどうだったかわかるはずもない。だがひとりの人間の身の上へ勝手気儘に思いを致すのは、改めて考えなくとも不遜なことだった。しかし、光の中に浮き上がったあの黒い姿こそ、孤立した無縁の者、しかも何者からも切り離されて自足した者の姿として私の記憶の内にある。そんな者はどこにもいない、そうわかってはいるとしても。
不足分の運賃を精算して改札を潜る。駅も変わった。水色に塗られた尖り屋根の駅舎はとうに建て替えられて、駅前のロータリーを半分ほども包み込む、二階建てのどこにでもあるような角張った形ばかり大仰な建物になっている。ロータリーに沿って書店や薬局や学習塾、地方銀行や大手ファーストフードの店などが並ぶ。以前は駅舎を出ても広場などはなく、かつては泉州の南部一帯に聞こえていた地元の名士が興したタクシー会社を挟んですぐ道が左右に伸びていた。左側の道のかかりの、砂礫から煉瓦片などの剥き出しになった盛土の上にあった小さな交番は、地方銀行のビルの隣、線路沿いにできた美容院のさらに奥に押しやられて、こざっぱりしたやはり小さな建物に横文字の名称を掲げている。