帰郷
町中へと伸びるふたつの道も広くなった。右手の道をとれば、古くからの町の中心部を貫いて通る道と、浜側へ下っていく道との分かれに出る。左を行けば、より広く整備された道が真っ直ぐに続いて病院のある四辻にぶつかり、さらに左折すると町役場を抜けて外環状線に繋がる今のこの町の表通りに出る。その表通りを指して歩いていた足が四辻にかかり、病院を左に見て進む、地の家々の間に張り廻らされた細道に踏み込んでいた。
陽は車中にいるうちに街並みの向こうへ隠れて、もはや淡い残照もなかった。薄蒼い宵の色が空を満たしている。病院の裏手を仕切る金網も尽きて、両脇に溝の掘られた裏道は静かだった。遠くから犬の吠え立てる声が聞こえてきたが、二声三声と数えるうちにそれも止んだ。表通りを行く、アスファルトを滑る車の音も道を進むうちにまばらになって、靴が地面を蹴る音に紛れた。
ロータリーに詰めているタクシーに乗ればよかったじゃないか。そう咎める声がする。そうだったかもしれない。これからでも表通りへ出てちょっと手を上げてみせればタクシーはつかまるだろう。簡単なことだ。わかっていながらそうしようとはしないのだ。本当のところ、父が息をしているうちに私は帰りたくないのかもしれない。できればこの瞬間にでも父の呼吸が熄んでしまうことを望んでいるのかもしれない。だからこうやって足を速めもせず、今でも村中と呼び習わされている家々を縫う細い道筋を辿っている。
死に瀕し、すでに目を閉じて静まっている父の顔とどうやって向き合えるというのだ。床に横たわった父の傍らに母と姉が端然と坐っている。ふたりの女の目が、もう見ることも喋ることもできない父の顔を見下ろしている。そこへ帰ってきた私が母と姉の向かいに坐って同じように父の顔を見下ろし、七十年余り続いたその生の終焉を待てというのか。
目を閉じていることがせめてもの救いだ。しかし姉は、意識がなくなったと言っただけだった。閉じてはいないのかもしれない、祖父の死の時のように。何度瞼を下ろそうとしても、肉は縮んでゆっくりと精気のない目を剥きにかかるのかもしれない。靄を被ったみたいに白濁した目が、何を見るともなく見開かれている。その意識をなくし、惚けたような父の顔を、その生命が断ち切られた後も生き続ける人間が見下ろしている。少しでも長く生きてほしい、そう祈られる一方で、その生命が黄泉に召される瞬間を、枕元に坐られたふたりの女に待たれてもいるのだ。
父を挟んで母と姉の向かいに坐り、細く頼りなげに続いている小さな息の、密やかな臓腑の蠕動が終わりを告げるその時を待つために、足元に気をつけながら村中の曲がりくねった暗い道を一歩また一歩、実家へと近づいている。そう思うと狭まってきた道を行く歩みはさらに鈍くなる。携帯電話は震えない。父はまだ生きている。
両側に塀の迫った細い視界の先に白い光が跳ねている。釉薬のかかった蒼いタイル貼りの家壁が目の前を塞いでいた。電灯の強い明かりを受けて、てらてらとなめらかな光を表に溜めている。家壁の左端から鉤の手に折れて続いている道の切れ込みが見えない。眩い光に射られておかしくなったのだろうか。タイル貼りの壁もアスファルトの道も、相当に暗くなったはずの宵の空も白く輝いている。光の差してくる源を仰ぐ。頰に額に、わずかながら触れるものがある。頭の芯がぐらぐらと揺すぶられている。
遥かな高みから降りてくるこまやかな短い光の粒は、狭い道に立ち、空の白い輝きを見詰める私を包み込み、掬い上げようとする。奇蹟など起きようはずがない。どんな気紛れもこの世界にはあり得ない。起きたことは起こるべくして起きるのだ。どんなに意味を探っても、どれだけ後悔しようとも、どれほどうまく欺こうとして造った嘘で自分を言い聞かせようとしても、すでに起きたことの軛から逃れる方法などただのひとつも残されてはいないのだ。地上から引き抜こうとする力に身を任せ、微小な光の粒に溶け込ませるみたいに私は囁く。
父さん、母さん、あなたたちの息子はここにいます。