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帰郷

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 直接言葉を交わした記憶もない。どんな考えを持って八十に届かなかった齢を生きたのかも知らない。終戦時には北支にいたという。ぼろぼろの軍服姿で郷里の家の戸口に現れたとも母から聞いた。幼かった母は怯えた。祖母はどんな顔をして祖父を迎えたのだろうか。私にはわからない。自分の貧弱な生の経験から汲み取って想像するというのも憚られる。祖父はもとより、間接的に祖母や母に訊くこともならなかった。訊けば祖父の何かを冒す。そんな感覚に子供ながら口を開くのを戒められていた。
 しかしまぎれもなくその祖父の血がこの五体に流れているのだ。どれほど前から住んでいたのか知らないが、泉州南部の狭い窪地に縛られた土着の血だ。鍬を振り上げる。固くなった地面に刃先を突き入れ掘り返す。種を蒔き蓮華を咲かせて土を肥やす。水を引き入れ、柔らかくなった土の底を掬う。鍬の背で水が漏れないよう田と田を分ける畔に泥を塗る。乾いて灰色になった泥土が爪と指の間に食い込んだ農民の血。だが、少なくとも祖父の代からは半農半商になった家の血だ。その末の血が、私を生かすために与えられている。
 一度でもこの血統が絶たれていれば、今私はここにはいない。低い丘陵に隈取られたあの土地で祖父と祖母とが母を産み落とし、二十四年の歳月を経て父と母とが私をこの世界の只中に現出させた。私が誕生する三十年前には遥か西方の山間の村で父を産み出した祖父と祖母がいて、父方、母方それぞれの祖父母も一対の、いずれ土の上で偶然が廻り合わせた男女の交わりから生まれ出てきた。まさに脈々連綿として、粘性のある赤い流れが女性から、女性の胎内に宿された透けるような小さな生命に受け渡されてきたその末だ。それなのに私は祖父という位置にいる男のほとんどを知らないのだ。
 唐突に突きつけられた写真の中で胡坐をかく姿。母によって語られたぼろぼろの軍服を着た復員兵。正月ごとに分かれ住む親族が参集し、濛々と湯気の立ち昇る鍋を囲む部屋、その段違いの棚を設えた床の間を背に上半身を起こし、居並ぶ者たちを睥睨する目。祖母が不意に蒲団を捲り上げて露になった、寒々と伸びて肉のこそげた二本の脚。血の流れの停滞のため、病の床に長い年月を過ごした男の脚。浮腫みをもった青黒い顔。玉を咥えさせられた口。生き残って自分を見下ろす者共へ、亡くなってなお宥められない忿怒を示すかのように逆立った白い眉。
 私にとって祖父は断片だと言うほかはない。十数年経った今も執念く付き纏い、意識のあわいに浮遊する。曾祖父や曾祖母は影もない。観念としては理解できても、生きた肉体、血を廻らせた体を持ち、私から母、祖父と、血の繋がりを辿っても、その立姿には行き着けない。かつて生きて在ったのは確かだが、会ったことも見たこともないのなら、実感の欠けらさえ得ることはできないのも当然すぎることだろう。
 では父は。そう言われ、改めて考えてみるとやはり何も知らないのだった。物心ついた頃から同じ家にいる。それが父であり母なのだ。私という弱い者を優しく包み込む庇護者であり、無知蒙昧に生まれ出たまっさらな、精神とも言えない未明の空白に、偏見という別名を隠し持つ香りを焚き染め、炎熱の焼きを入れ、狭隘な土地の古くからのやり方を唯一の薫陶として際限なく与え続けるのだ。好むと好まざるとに係わらず、厳めしく発達した巨きな身体で、まだ左右を見廻すことすらも知らない無力な者を脅かし、いろいろの曲折は経たとしても結局は自分たちの思うがままに言うことを聞かせてきたのだ。何十年と暮らしてきたあの窪地から狭い範囲に拡がっている世俗世界の、見ることのできない垢に塗れた指先で、掌で、生まれたばかりの幼子の柔らかな肉を摑んでは捏ね上げ、自分たちの好む形に築き固めてきたのだ。
 初めからある。その存在の、当然という顔つきに私は圧倒されていたのだ。傍らにいるのがあまりに普通すぎて疑うことができかねた。血の受け継ぎを媒介するのが生身の肉と肉とであるのなら、父という存在もまた、肉と肉との一夜の交わりの果て、見知らぬ一個の肉の塊から産み落とされたのだ。父にとってそれは母と名づけられ、相手の男は父と名づけられる。しかし一組の男女を父母と名づけさせる元になった者がそうと認められるようになるにはまだ数年の時を必要とするのだ。その生命の始まりの幾年かがすっぽりと抜け落ちてしまっている。そう断定するのが極端すぎると言うのなら、霧がかったように見えにくいと言い換えてもいい。当たり前といえば当たり前に違いない。でも気になりはじめれば堪え難い。
 父は出産に立ち会ったのかどうか知らないが、少なくとも母は、羊水に濡れた私の皮膚が、ひりつくような外界の空気に触れる瞬間こそ産婦人科の医師や看護婦に譲ったけれども、その生のほとんど最初から私とともにいたのだ。赤裸で泣き喚き、何も摑めない、地に立つこともできない、役立たずの四肢を無様に振り回すのを、疲れが滲んではいるがこの上なく幸せな表情で見詰めていたのだ。その時の母の顔を見たわけではない。しかしそうとでも想像しなければ、何ひとつ持たずに生まれてきた私があまりにも可哀相ではないか。
 ほどなく知らせを受けて父も病院のベッドに横たわる母と、柔らかな襞を見せた産着に包まれている赤児を見ただろう。その時のふたりの遣り取りは幸せに満ちたものだっただろう。いや、幸せに満ちたものであってくれ。そう想像しなければ……。
 だが仮に、あくまで悪い方に考えてみるだけなのだが、そうではなかったとしよう。十月ものあいだ胎内に育み、成長を感じ取ってきたいまひとつの小さな生命がこの世界に産み出され、夜を徹した苦しみに疲れた母の顔が、自分の分身である皺くちゃの赤児が顔をゆがませて泣くのを見ても輝きに変わることはなかったとしよう。数日も間をおいてやってきた父が自分の血の幾分かを分け与えた無力な新しい生の形を目にし、横になった体を起こそうともしない母の瞑った目を一瞥し、立会った看護婦が用意してくれた椅子にも腰掛けず、うわべばかりの優しい言葉も投げずに病室から出て行ったとしよう。事実はそうであったとしても、それが一体何だというのか。確かに悲しいことかもしれない。だがそれが一体何だというのか。
 生まれた時、父と母がどう思っていたかなど本当のところはわからない。簡単に話せることでもないだろうし、もし話せるのだとすればそんな記憶は紛い物に過ぎない。今になって訊くようなことでもない。母の反応、父の振る舞いがどうであろうとも、そんなことなどまったく気にもせず、私はなんにも思わずに、ただ泣き叫んでいたのだ。私は私のしたいように力の限り泣いていたのだ。
 思えば母の体温から隔てられた、この世界に投げ出された不快さへの悲鳴のような泣き声が、最初の私の言葉だった。もちろん思考の内から吐き出されたのではない。まだとても人間としての形が定まってはいない、ぶよぶよした脂の塊みたいな生命からほとばしる声は、父と母の血を譲り受けた私というものが生まれ、今この時からここにあり続けることへの高らかな宣言でもあったのだ。
作品名:帰郷 作家名:那村洵吾